編集部コラム

「週刊SPA!」に「ヤレる女子大生」と言われても笑い飛ばせる自信

年始、週刊誌の「ギャラ飲み」特集の中で取り上げられた「ヤレる女子大生ランキング」が炎上していた。ランキングに名を連ねた大学の中に、自分の出た高校の付属大学の名前があったのだけれど、その大学を卒業したかつての仲間たちとこの記事を読んで、ゲラゲラ笑ってしまった。 ――そこからの私的な思いを、綴ります。

●編集部コラム

「ヤレる女子大生」記事の炎上に怒れなかった私

炎上に「怒る」ことができなかった。

いつでもその自分の鈍感さにはがっかりするのだけれど、今回の記事について明確に、怒らなかった理由が自分でわかっていた。

それは自分たちらしさに自信があり、実態がそこにはないと確信していたからだ。

記事が示す品の無さや、こうした記事への需要が未だにあることへの失望感。こんな世の中を変えたいという気持ちと、変えるためにはもっと敏感に怒りの声をあげていかなくてはいけないということは理解している。

それでも、私が「ヤレる女子大」の付属で過ごした時間の密度や、出会い、誰かがしてくれた肯定に、その誰かをとことん信じたという経験は揺るぎない私の中の真実なのだ。

言われた彼女たち一人ひとりに、人格がある

あの日失恋話をとことん朝まで聞いてくれた彼女も、バイト代を全てバンドの練習代につぎ込んでいたあの子も。

「ヤレる」と言われた彼女たちは、一人ひとりに人格がある。時に純朴で時にしたたかではあった。でもそんな彼女たちの生きる姿やあり方は「誰かの性の対象になるため」にあるわけではないと、長い時間をかけて築いた関係が、どんな揶揄も滑稽なものに変換させてくれる。これは、自信を持って言える。

であれば。この、「自信」という言葉をもっとちゃんと因数分解したら、別のことにも生かせるのではないだろうか。

誰かが適当に作り出したカテゴライズや言葉で、自分の価値とか中身が侵されることなんてないと、強く世の中を振り払うことができるのではないか。

例えば今回、問題の記事を見ても揺るがなかった私の「自信」の根拠は、圧倒的に共感し、そして共闘してくれる、仲間の存在だ。

共感だけをしてくれる人は、どこかで出会うことができる。でも、いざ拳を振り上げる時に、絶対に一緒になってやってくれる「共に闘える仲間」の存在はより心強く、自分の人生を支えてくれている。

時間をかけて築いた自信。「お詫び」は一瞬でも……

いつでも戦うつもりじゃない。基本的には笑い飛ばしていたい。でも、やる時はやるんです、私たち、別に腹が立ってないわけじゃないんでっせ?そんな仲間を、もっと色々な場所で作っていければ、それが私にとっての自信に繋がっていくのだろう。

ただ一方で、その自信を確立するのに、どれだけの時間がかかったか。3年や5年でもきかないくらいの歳月を有していることもやっぱり忘れてはいけない。

件の記事についてはのちに、編集部からのお詫びのコメントが報道された。

記事を書くのは、そしてそのお詫びコメントを出すのは、どれほどすぐにできることだろう。

それでも、女性が自分たちへの中傷を笑い飛ばす自信を手に入れるのには、これほど時間がかかっている。

たった一つの女性蔑視の記事を一笑するのに、5年以上の時間がかかる。

まだまだそんなスピード感の中で私たちは生きている。気後れしそうになる。

揶揄を笑い飛ばす自信。そのための仲間。もっともっと増やす。多分これからも悲しい思想とか、虚しくなるような文章に出会うことはあるだろうから。その時のために。

大学卒業後、芸能事務所のマネージャーとして俳優・アイドル・漫画家や作家などのマネージメントを行う。その後、未経験からフリーライターの道へ。
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