編集部コラム

「ブス」はいつだってやめられる

telling,編集部日記。火曜担当の伊藤です。話題の「ちょうどいいブス」について考えました。ブスって言葉、必要ですか?

●編集部コラム

「ちょうどいいブス」。
相席スタート・山崎ケイさんのエッセイ原作のドラマ化が決まり、話題となっています。「ちょうどいい」って誰にとって? 私たちは最高にかわいい女を目指しているのだが?などなど。

私は「ちょうどいいブス」という言葉を見た時、思わず大きくため息をついてしまいました。もう平成も終わろうとしているのに、まだブスだなんやと言うてるんか……。

2018年。渡辺直美さんが「ふくよかな美しさ」を、りゅうちぇるさんが「他人にどう思われようと、自分の好きなファッションをすることがハッピー」という価値観を発信してくれる時代になりました。救われた人も多いと思います。私もその1人です。

私の学生時代は「エビちゃん」こそ、美の”正解”でした。つまり、細くて長い足、ぱっちり二重の大きな目、こぶし大の小さな顔……。どれも自分からはかけ離れたもので、「私ってブス!」「もうブスとしての人生を歩むしかない」と、枕がびしょぬれになるほど泣きました。

何も泣くほどでもないでしょ、と今は思うのですが、当時は「生まれた時から十字架背負ってるようなもんじゃん?」「私が前世で何をしたわけ?」と親に空のティッシュペーパーの箱をぶつけるほど絶望していました。

開きなおって「ブスで良かったこと」も考えてみた

開き直って「ブスで生まれて良かったこと10選」を無理やり考えたこともありました。付き合った男性に対して「顔で女を選ばない男です」と周りの評価を上げられる▽悪口は「ブス」に一本化される(「お金に卑しい」とか「男を寝取る」とか後天的な悪口は言われない。一本化されることで悪口の免疫力もつく)▽老化が怖くない(神様はなぜ若さと美貌を先に与えて奪うのでしょう、という言葉があるが、もとから美貌は与えられていないので奪われない)……などなど。

こうして、自分を「全然大丈夫!」「むしろブスで良かったくらいだね!」と励ますのですが、それはただの強がり。自分を卑下して「私ブスなんで~」といううちに、だんだん本当にブスになっていき、ブスとしての人生を歩むようになっていきました。

踊れない美人より踊れるブスになりたい

この「私ってブス」の呪いがとけたのは、27歳でポールダンスを始めてからでした。それまでは、鏡を見ることも苦手だったのですが、ある時「鏡見ないで努力を怠って、下手なダンスしてる方がブスではないか?」と気づいたのです。

踊れない美人より、踊れるブスの方がかっこいい!!!と自分の中での、イノベーション(?)が起きたのです。そして、「踊れる」にもいろんなジャンルがあり、何を「美」とするかも人それぞれだと気づいたのです。27歳にして、初めて「エビちゃんにどれだけ近づくか」以外の美の基準を知りました。

それからは、自分をブスと思うこともなくなりました。だって私踊れるもん。もっと言えば、ブスとか美人とか誰が決めるの?世界に60億人もいて、なぜ基準がひとつなの?と何のひねりもない、当たり前のことに気づきました。

コンプレックスを「活かす」時代に

最近では「容姿だけで判断する」というミスコンをなくす動きも出始めています。貧乳ブラやふくよかな人向けの洋服のブランドもできはじめました。コンプレックスは隠す、ではなく活かす時代になりつつあります。

あ、やっぱり美って多様なんだな~。昔の私に教えてあげたいぜ!と思っていたところで、この「ちょうどいいブス」騒動。ブスって誰が決めるの?っていうか、ブスって言葉、この世にいります?誰かこれで救われる人がいるんですか?私は自分をブスだと卑下して得したことなんて1個もなかったですけども……。

もう、やめにしたいです。誰かの決めた物差しで、自分や他人の容姿の善し悪しをはかることを。ブスという言葉が、世界から消えればいいのに。

telling,の妹媒体?「かがみよかがみ」編集長。telling,に立ち上げからかかわる初期メン。2009年朝日新聞入社。「全ての人を満足させようと思ったら、一人も熱狂させられない」という感じで生きていこうと思っています。
telling,Diary