力を抜いてぼちぼちやったら、本当に大事なものが見えてきた
マクドナルドの店員になりたかった少女の頃
うちは母が毎日昆布でだしを取る家で、味噌汁やぬか漬け、魚が中心の食卓で育ったんです。おやつも、さつまいもをふかしたのと煮干しということが多く、スナック菓子を食べた記憶はあまりありません。そんなに食べたいとも思いませんでした。
ただ、マクドナルドだけは別で、店員さんのキラキラした笑顔とか素敵だなって。将来、マクドナルドの店員になりたいと思っていました。ファーストフードとは無縁の家庭だったので、反動があったのかもしれません。
がむしゃらに走っていたら、生理が止まってしまった
短大を卒業後、ガラス工房に勤めました。制作から経理まで、いろいろな仕事を任されたのですごく忙しくて。25歳くらいの時に、生理が止まってしまいました。
そんなある日、偶然、大学時代の友人に再会したら、すごく様子が変わっていて。「仕事のストレスで生理が止まって、ホルモン剤を飲んだら体重が増えた」というのです。「食事で治せるのなら、そのほうがいい」と言われました。病院に行って、薬で生理を起こしたこともありますが、なんとか食事で治そうと、必死でマクロビの勉强をしました。
しかし、一向に体調は良くなりませんでした。悩んだ挙げ句、7年間続けた仕事も治療もマクロビも、全部手放しました。そうしたら、3年間止まっていた生理がきたんです。
迷走する日々、将来が見えない
ガラス工房の仕事を辞め、体調も回復してきた時に、弁当屋の仕込みのアルバイトを始めました。食材の仕入れに一緒に行くこともあり、その時、奈良県の山添村でオーガニック野菜を作っている老夫婦に出会ったんです。その美味しいことといったら。当時は、まだオーガニックという言葉すらないような時代でしたが、衝撃的でした。
30歳くらいの時に、そのご夫婦の野菜を使って、奈良にあるギャラリーで、料理を作る仕事を始めました。作った料理を、陶芸作家の素敵な器に盛り付けられるので、嬉しかったですね。やがて、野菜農家のおじいさんが亡くなり、その野菜を使った料理が作れなくなったので、「これからどうしよう」と、再び途方にくれる日々。10年くらい続けたギャラリーの仕事も辞めました。
「これから、だし料理研究家!?」
私が住む町には、空堀商店街という昔ながらの商店街があって、その一角に「こんぶ土居」という老舗の昆布屋さんがあります。子供の頃からお使いに行っていたのですが、世間話をする程度でした。
ある日、そこの前を通りかかると、だし教室をやっていたんです。参加費230円の小さな教室ですが、こういうシンプルなことができたらいいなと思いました。その後、4代目の店主、土居純一さんと食について話す機会がだんだん増えてきたんです。
ちょうどその頃「こんぶ土居」の映像作品を作ろうという話があり、映像制作会社の友人に「一緒に作品を撮ろう」と声をかけていただいたんです。3代目のご夫婦のことは、親しみと尊敬を持って、「お父さん、お母さん」と呼んでいます。『土居家のレシピと昆布の話』という本にも、料理研究家として参加しました。
3代目のお父さんとお母さんは既に引退されていたので、現役の頃より時間に余裕があり、昆布やだしのことを一から教えてもらうことができました。私も、ガラス工房で働いていた時の預金が多少あったので、時間に余裕がありました。
仲間一緒に小学校に行って、だし取り教室の出前授業をしたり一汁一菜教室という料理教室もしたりしました。その頃、お父さんが「これからChieさんは、だし料理研究家です」と言ってくれたんです。
40歳にして、「これだ!」と思える仕事に出会う
せっかく日本人に生まれたのだから、昆布とかつおや煮干しで取っただしを使った、本物の料理の味を伝えたいと思いました。多くの人に質もいいものを食べて、健康になってもらいたい。それが41、歳の頃のことでした。
いまは、知り合いのつてで声をかけていただいて、料理教室を開いたり、たまに料理学校で講師をしたり、ケータリングの仕事をしたりしています。まだ経済的には厳しいので、飲食店の掃除や皿洗いのバイトもしているんです。
もちろん、いい仕事をいただいたらやってみたいという気持ちはありますが、どこで歯止めをかけるかですね。余裕を持つことで、ひとつひとつの仕事を丁寧にしていけたらいいなと思っています。
京都にて