地産地消料理研究家(44歳)

長野に移住してやっと本当の自分に出会えた気がします。

地産地消料理研究家(44歳) いまいる場所でがんばることも大切だけど、環境を変えることで変われる自分もいるはず。「私は何がしたいんだろう?」。結婚、離婚、新たなパートナーとの出会いと別れ……中村恭子さんは20代から30代にかけて、自分探しの旅が続いたといいます。自然が豊かな長野・蓼科に移り住み、ようやく自分らしい自分に出会えたそうです。

 長野県の蓼科に移住して7年目になります。リタイアした両親が購入した中古のペンションをリノベ-ションして、小さなカフェを開いています。ずっと東京で暮らしていましたが、30代の半ばから、消費にまみれた生活をやめて、自分で作ったり生み出したりする生活がしたいと思うようになったんです。今はテイクアウトスタイル中心で焼き菓子と飲み物を提供するだけですがいずれは地元で採れるオーガニックな食材を使ってお料理を出す、そんなお店にしていきたいと思っています。

「食」による町おこしに取り組んでいます

 「ビジンサマ」って神さま、知っていますか? 「美人様」じゃないですよ(笑)。ビジンサマは蓼科で古くから信仰されている神様で、「休む」神様。ここ蓼科では「ビジンサマが山を通る日、人は仕事を休む」との言い伝えがあります。蓼科が昔から保養地や転地療養の場所になっていたことも神様と関係があるのかな? 地元の人たちと社団法人「蓼科塾」をつくって、食による地域おこしの活動もしています。1年に1回、食のイベント「ビジンサマ・マルシェ」を開いたり、体にやさしい食材を使ったレトルトカレーを販売したりしています。そうそう、「地産地消料理研究家」「マクロビオティック・コンシェルジェ」として、雑誌「クレア」や「クロワッサン」のウェブで料理記事の連載もしているんですよ。

 もともと、子どもの頃から、何がやりたいのか、わからなかったんです。大学では児童文学を専攻していましたが、当時は就職氷河期。親の縁故もなく2カ月間、就職浪人をして地元の小さな不動産会社につとめ、仕事で知り合った人と結婚しました。でも、母親がとても厳しく、自分の感情をストレートにぶつけてくる人だったので、母子関係がうまく築けなかった。だから自分が母親になったら同じことをするんじゃないかと思うと、怖くて子どもを作れませんでした。結婚生活は4年で終わり。この時期は自己啓発本をよく読んでいましたね。

つきあった彼はすでに「末期がん」でした

 「食」を仕事にしたのは、次につきあった人の影響が大きいです。30歳になる直前で、彼は25歳年上。会社の経営者でしたが、交際してすぐに末期がんだとわかった。骨まで転移していました。手術も無理。「え、なに?!」と思いながら、「なんとかして助けなきゃ」と毎日、オーガニックな食事をつくり、朝晩、ニンジンジュースをつくって飲ませました。それとの関連はわかりませんが、最終的には、がんは消えてしまったんです。

 でも、がんとの闘いが一段落して結婚も考えましたが、年齢差のことなどの問題もあり、関係を前へ進めることができなかった。いろいろ考えることがあって、なんだか、疲れちゃったんですよね。7年間、一緒に暮らしていましたから、別れてからしばらくはショックで、心身ともにボロボロになりました。

移住の準備?もちろん、しましたよ

 地方への移住は彼と暮らしているときから考えていました。彼との生活で「食」の大切さがわかったので、移住後は「食」の仕事を始めようと決めていました。

 マクロビオティックのレストランや、「オテル・ドゥ・ミクニ」の丸の内のお店で働いて、料理の修業をしたり、サービスを勉強したりしました。でも、肝心の先立つものがなかった。移住資金がたまっていなかったんです(笑)。一方、実は両親もリタイアしたら地方に移住することを考えていたんです。でも東日本大震災が起きたりして、時機や場所を検討していたところでした。そんなふうにいろいろな偶然や必然が重なって、親子で蓼科に移住することにしたんです。

 もちろん、長い間、両親と暮らしていなかったし、母親にはトラウマがあったので同居には不安がありましたが、やっぱり、ここにはビジンサマがいるんですね(笑)。豊かな自然の中では見えてくる光景も、空気も、流れている時間も違います。それまでの生活でこだわっていたものも、ここに来てこだわらなくなる。母親もこちらに来て変化したと思います。毎日、新鮮で質の良い地元の食材を食べていると、人の心も穏やかになってきます。

違う暮らしの中で、母と娘の葛藤もなくなりました

 私も年齢を重ねて、子どもの頃はわからなかった母親の気持ちや事情も理解できるようになりました。いまはいい親子関係ですね。仕事も家族も40代になってまとまってきた感じがします。長い間、自分探しをしていた「自分」にようやく会えたような気がします。まあ、母は相変わらず、「相手はいいから、とにかく子どもはつくりなさい。年々、出産のハードルは高くなるんだから」とか言っていますけどね(笑)。

 両親と経営しているカフェには「樽(オーク)」と名づけました。オーク(ナラの木)はものすごく大きくなる木。その大木に鳥が巣をつくり、虫たちが集まってきます。木がいろいろな命に居場所を提供しているんです。なんとなくこのカフェがそんな木のような場所になったらいいし、わたしもそういう木のような人になりたいと思いました。自分は子どもをつくらなかったけど、誰かに幸せを与えて生きていけたらいいかな、って。

「120歳くらいまで生きるんじゃない?」といわれてます

 1日は朝、起きて湧水を飲むことから始まります。いい水を飲んで、いい空気を吸って、いい地元の食材を口にしていると、病気になる気がしません。友人たちからは「120歳くらいまで生きるんじゃない?」といわれています。そんな年齢まで生きるかわかりませんが(笑)、病気にはならないんじゃないかな、という気がしてきました。将来、私がおばあちゃんになったら、薬草摘みでもして、カフェに来た人たちの中に「最近、なんか体の調子が良くないの」なんて人がいたら、「はいはい。じゃ、この草を煎じて飲んだらいいですよ」なんて言ってあげられたらいいなと思いますね。

丸の内にて

1986年週刊朝日グラビア専属カメラマン。1989年フリーランスに。2000年から7年間、作家五木寛之氏の旅に同行した。2017年「歩きながら撮りながら写真のこと語ろう会」WS主催。
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