編集部コラム

「私なんか」って言わなくていい。「過度な謙遜」とサヨナラしよう

telling,編集部の助っ人Sです。最近、telling,の企画を考えていると、「生きづらさ」などに思いをめぐらせることが多々……今回は、日本のなかで美徳、とされてきた「謙遜」について考えてみます。

●編集部コラム

自分下げしてないですか?

「私なんかまだまだですよ」
「私なんてそんなにかわいくないからさ」

日常的にそんな言葉を使っていないでしょうか?

日本では、「謙遜」は美徳だとされることが多いと思います。例えば、何か誇れる能力があったとしても、「そうなんですよ、私の能力です(ドヤァ)」なんてまかり間違っても言ってはいけない。そんなこと言うと「あいつ調子に乗って」「つけあがって」なんて言われるのが関の山。「いやいや、そんなことないですよー」「まだまだですよー」「みなさんのおかげです~」が正しい回答であるような、そんな雰囲気を感じます。

これは特に、男性より女性が感じているのではないでしょうか。男性と遜色ない、いやもしかしたら男性より優秀な女性だったとしても、謙遜しないとやっかみがすごくて、仕事がやりにくい、的な。

どうにも、「謙遜」という隠れ蓑を着た「自分下げ」またの名を「卑下」、を強要されているようで、気持ち悪い。そのことに私が気づいたのは、社会人になってすぐのことでした。

それまでは自分を評価される大きな指標のひとつが「勉強」「成績」だったので、努力したら結果が出るのはある程度当然、という土俵にみんなが立っていたように思います。でも会社というコミュニティに入ると、そういう分かりやすい評価軸がなくなる。もちろん、ありのままの実力を評価してくれる人もいます。でも、いまだ男性主体の社会では、女は一歩下がって……みたいな無言の圧力。

「謙虚」と「謙遜」は違う

断っておくと、「謙虚」はよいと思うのです。
「謙虚」は、自分のことは決して下げないけれど、控えめにすること。素直に相手の意見を受け入れること。
「謙遜」は、自分の能力や価値を低く評価したり控えめに振る舞うこと。

ありがたいことに、telling,を読んでくださっている方から、感想メールや応援メールがかなり頻繁に編集部に届くのですが、たぶん、「謙虚」な方が多いのではないかなと思います。自分の本当のプライドや謙虚さを持ちつつ、相手を気遣いすぎて、過度に謙遜してしまっている……。

思考は現実化する

でも思うんです。自分下げをしていると、本当に「そんなことない人」になってしまうと。

自己啓発本の先駆けとしてもはや古典のようになっている『思考は現実化する』(ナポレオン・ヒル著)じゃないですが、思っていることは現実になる、と私は思っています。あと、日本には古くから「言霊」という考えもあって、やっぱり、声に出したことってだんだん本物になっていくと思います。本当に。

すごく能力があるのに、なんだか自信が持てない。もやもやしてる。それは、自分で自分に「そんなことない」「大したことない」っていう呪いを無意識のうちにかけてしまっているからかもしれません。

「(本心でない&過度の)謙遜」→卑下するクセがつく→「私なんか」→本当に自信がなくなる、っていうスパイラル、そろそろやめませんか?もっと、自分を愛してもよいと思うのです。

「ありがとう」で受け止める

私はあるときから「かわいい」「きれい」と言われた時に、「そんなことない」というのをやめて「ありがとう」と言うことに決めました。そうすると、どんどん自分で自分を「今日はとても良い」とか「可愛くメイクできた」とか認められるようになりました。

仕事もそう。できることを認められたら「ありがとう」と言います。そうすることで、逆にもっとやる気がわき出てくることに気づいたから。それは、不遜だったり自信過剰なのとは違う、と心から思えるから。

だから今、「私なんか」って言っていて生きづらさを感じている人がいたら、まずは1日、やめてみませんか、と伝えたいのです。そうしたらもっと生きやすく、明るくなるはずだから!それでももし、「謙遜」を過度に求められるようだったら、そこからはどんどん逃げ出すべき、だと私は思います。もっとちゃんと自分を見てくれて、フラットに認め合える場所って、きっとある。私がそういう場所を見つけたように。

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