編集部コラム

西城秀樹さん担当編集者が語る、お寿司屋の思い出【画像あり】

西城秀樹さんは、今年5月にこの世を去りました。未だ「秀樹ロス」の中にいる人も多数。秀樹さんがどれほどのアイドルだったかを知らなくても 最近の報道で、その偉大さやスターぶりが気になっている方もいるかもしれません。世代を超えて愛される名曲を次々と生み出し、「ヒデキ」の愛称で愛された西城さん。「週刊朝日」で08年から1年半にわたり、「秀樹とヒデキ」のエッセーを連載中に、担当編集者だった大嶋辰男が、西城さんへの思いを書きました。

 死には早すぎる死と遅すぎる死のどちらかしかない……たしか哲学者のサルトルがそんな言葉を残していたと思う。63歳でこの世を去った西城秀樹さんの死はまぎれもなく前者だろう。

 筆者は2008年1月から1年半、週刊朝日のデスクとしてヒデキさんのコラム「秀樹とヒデキ」を担当した。

 コラムを始めたきっかけは、ささいなことだった。ある日、懇意にしているライターがふらりと編集部に現れて、ヒデキさんを取材した話をした。「西城さんって大スターなのに会ってみると、気さくでとっても面白い人でした」。この一言で連載が決まった。

 1960年代生まれの筆者にとって、ヒデキさんはスターそのものだ。歌謡番組が全盛だった昭和の時代。長い髪を振り乱し、派手なアクションで「情熱の嵐」や「傷だらけのローラ」を熱唱するヒデキさんの姿に、何度、夕餉(ゆうげ)の箸が止まったことだろう。

 一方、CMでは、ひょうきんな笑顔で♪ハウスバーモントカレーだよ~と歌っておどけてみせる。子ども心にも、そのギャップに引き込まれた。リンゴとハチミツがとろり溶けているのがカレーだ……気がつくと、そう思い込んでいた。スターとはそういうものであった。

初対面の印象は、“フツー”

 すぐにヒデキさんをたずねた。ヒデキさんの事務所は、当時、なぜか、政治家の事務所がたくさん入居している永田町のビルにあった。

 憧れの人との初対面は印象的だった。緊張して応接室で待っていると、長身のヒデキさんが「やあ!」と、CMの笑顔のまんまで、あらわれた。その所作は大スターにしてはあまりに気さく、あまりに自然、あまりにフツー。調子が狂ってソファからズッコケそうになった。久しぶりに年上のいとこのオニイさんに会ったような懐かしさを感じた。失礼ながら、のっけから「ヒデキさん」と呼んでいた。

「いいね!」「面白いね!!」……打ち合わせの席で、ヒデキさんはやんちゃなアニキみたいに、相づちを打ちながらこちらの話を熱心に聞いてくれた。そして、会話のところどころで、「こんな話を書いたらどうだろう?」とアイディアを出してきた。

 後でわかったことだけど、ヒデキさんの頭の中にはいつも読者やファンがいて、何をしたらもっと喜んでもらえるのか、考えていた。エンターテイナーとはこういう人なんだな、と勉強になった。

「職業、スター」。西城さんは、その肩書を気に入ってくれた

 困ったのはプロフィール欄の記述だった。知らない人はいない国民的スターのヒデキさんをあらためて「歌手」と紹介するのははばかられる。歌っても、演技をしても、何をしたって「ヒデキ」になるのだ。いっそのこと「職業、スター」って肩書はどうですかね、と話したら、「おっ、それ、いいね!」と、ヒザをポンと叩いて喜んだ。

 そんなこんなでヒデキさんの魅力にハマった筆者は、しゅっちょう、編集者との打ち合わせに同行した。

 ヒデキさんは驚くほどオープンで、事務所のスタッフに大金を持ち逃げされた話からダイアナ・ロスに口説かれた話、アイドル時代にどうやって芸能記者の目を盗んで女性とつきあったか、なんて話まであっけらかんと話してくれた。

 一方、ヒデキさんは奥さんや子どもの話を話すことも多く、これらの話題はコラムのかっこうのネタになった。人気アイドル、スターとして芸能界の第一線を突っ走ってきたヒデキさんは、そうはいっても特殊な世界で生きてきた。晩婚だったヒデキさんは、家庭を持ってようやく得た「フツーの生活」を心から楽しんでいるようだった。コラムで、生まれて初めてマクドナルドのハンバーガーを食べたと「告白」したこともある。大型ドラマの主役にばってきされたときも、子どものことを考えて断ったという。濃厚なベッドシーンがあったからだ。

 週刊朝日でグッチ裕三さんと対談してもらったときは、「人が好きなんだろうね。要するに自分が楽しみたい」と語っていた。誰に対してもフラットなつきあいをする人、自分と人との間に距離をつくらない人だった。

 「よかったらおいでよ!」と某所で開かれたプライベートなパーティーに誘ってもらったこともある。会場には芸能界やレコード業界の実力者が集まっていた。中には「ドン」と呼ばれる芸能プロダクションの大物社長さんもいて、少し緊張したけれど、そこでも、ヒデキさんはあちこちから、「ヒデキ~」「ヒデキ~」とお声がかかっていた。陳腐な言い方になるが、みんながヒデキさんを愛していることがヒシヒシと伝わってきた。

西城さんが通ったお寿司屋さんで食べた、カレー

 そうそう。あれはいつだったっけ。ヒデキさんがひいきにしている川崎のお寿司屋さんでごちそうになったこともあった。

 お店の中は地元のお客さんたちでにぎわっていた。赤ら顔のオジさんたちがヒデキさんを見つけると「あっ、ヒデキさん!」と満面の笑みを浮かべて声をかけてくる。ヒデキさんはそんなオジさんたちに「おっ、○○さん!元気にやってるの~?」なんて親しみをこめて応じていた。

 そして、話は横道にそれるけど、この店で忘れられないのはシメに食べたカレーだ。たらふくお寿司をつまんだ後、ヒデキさんはニヤリと笑って囁いた。「実は、この店の大将が作ってくれるカレーが最高にうまいんだよ。どう?」。もちろん、断るはずがない。

 子どもの頃、ヒデキさんのCMに影響されて、母親にせがんで作ってもらったハウスバーモントカレーもおいしかったけれど、「ヒデキ、感激!」のお寿司屋さんのカレーは、リンゴもハチミツも入っていなかったが、しびれるうまさだった。サラっとした独特のルーだったと記憶しているが、それにしても、いったい、なんだってヒデキさんは寿司屋でカレーを食べるようになったのだろう……なんていま、突然、思ってしまったが、もう話を聞くことはできない。

スター・西城秀樹は、「与える人」

 それはともかく、こうやって思い返してみると、そんなに長いつきあいだったわけではないのに、ヒデキさんから多くの濃厚な「贈り物」をいただいた気がする。筆者に限るまい。元気、明るさ、優しさ、笑い……スター西城秀樹はいろいろな人に、たくさんの感動と思いを届ける「与える人」だったのだろう。

 コラムの連載が終わると、ヒデキさんとは疎遠になった。再会したのは2011年の末、筆者が朝日新聞の土曜別刷り「be」の記者をしているときだった。

 当時beには「うたの旅人」という人気の連載企画があった。一つの歌を取り上げて、その歌にまつわるエピソードを深掘りして物語を書いていく記事で、筆者に執筆の順番が回ってきたのである。

 国民の熱い期待を受けて誕生した鳩山民主党政権がわずか半年で崩壊、菅直人さんが後を引き継いで首相になったものの、なんだかシュン……みたいな頃である。そんな時期だからこそ、いま一度、日本中を熱狂させた「ヤングマン」について書いてみたいと思った――というのは、後づけの理由で、取材にかこつけてヒデキさんに会いたくなったのである。

 久しぶりに会ったヒデキさんはこのときも「やあ!」と、年上のいとこのお兄さんのような笑顔であらわれた。当時の関係者にも話が聞きたいという筆者の申し出を全部、「OK!」と聞いてくれて、事務所のスタッフに、あれこれ取材の段取りを指示してくれたが、気になることもあった。

 話の途中、時々、ろれつが回らず、言葉がうまく出てこないのである。「あれ、ヒデキさん、今日は疲れがたまっているのかな」と思って事務所を後にした。それから1週間も経たないうちに、2回目の脳梗塞で倒れたと聞いた。なんともいえない気持ちになったが、もちろん、何もできなかった。

 でも、♪ヤングマン、さあ、立ち上がれよ……と歌って、日本中を沸きに沸かせたヒデキさんはやっぱりスターだった。病院を2週間で退院し、半年も待たずにステージに立った。筆者も、ヒデキさんからお誘いをいただいて、コンサートを見に行った。会場はたしか中野サンプラザだったと思う。

永遠の“ヤングマン”

 ステージの幕があき、それから、どんな曲を歌ったか、いまとなっては覚えていない。ただ、病の後遺症でちょっと不自由な足取りで登場したヒデキさんが、時にイスに腰をおろしながらも、しっとりバラードを歌いあげる姿は覚えている。かつて「ヒデキ!」と黄色い声で声援を送っていたであろうファンのご婦人たちが、必死にペンライトを振ってヒデキさんを支えている光景も目にしみた。

「永遠のヤングマン」ヒデキさんはこんなことも話していた。「ありがたいよね、昔からのファンがずっと応援してくれて。最近は娘さんと一緒にコンサートやイベントに来てくれる女性のファンもいる。年をとるのも悪くないかな、って思うんだよね……」

 コンサート終了後、楽屋にあいさつに行ったようにも記憶しているし、ヒデキさんもお疲れだろうと思い、早々に帰ったようにも記憶している。そして、その後、筆者も地方勤務に出てしまったのでそれっきり会っていないような記憶もあるし、もう1回くらいコンサートに行って会話をしたようにも記憶している。

 たぶん過去のスケジュール帳を丹念に見直せば、正確なことはわかるだろうけど、もうどっちだっていいのだろう。だってヒデキさんは死んじゃったんだから……。

 いまさらこんな話をしても、しかたないのだろうけど、いつの年だったか、クリスマスのディナーショーを見に行って、ショーが終った後の打ち上げの席にお邪魔したことも思い出した。

 会場では、17歳年下の若くてきれいな奥さんが大勢の関係者に頭を下げていた。その横であどけないお子さんたちがパパを見つけてしゃいでいた。「パパ・ヒデキ」には3人のかわいいお子さんがいる――。

 ヒデキさんの死を大々的に報じるスポーツ紙を読んでいて、一番上のおねえちゃんがもう15歳になっていることを知って驚いた。筆者がうっかり生きているうちに、時はスタスタと過ぎ去っていたのである。

 ありがとう、ヒデキさん。さようなら、ヤングマン。でも、ちょっとでいいから、さあ、立ち上がってみせてよ、もう一度……。合掌。

大嶋辰男(おおしま・たつお)
朝日新聞社バーティカルメディア・シニア・エディター。出版社を経て朝日新聞に入社。長らく出版部門に勤務し、書籍編集部、「AERA」編集部などにも在籍した。最も長く在籍した「週刊朝日」編集部で総括副編集長をつとめた後、新聞記者に〝転向〟し、現在、ウェブメディアで〝一兵卒〟として修行中。好きなものは、イカの塩からと映画「ひまわり」と足つぼマッサージ。苦手なものは会議と経費の精算。

20~30代の女性の多様な生き方、価値観を伝え、これからの生き方をともに考えるメディアを目指しています。
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