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私が自分の顔を嫌いになった瞬間。今だから話せる、ルッキズムのこと【ひらりさ】

昨今、じわじわと問題視されるようになってきたのが、見た目の美しさによって人を評価・差別する「ルッキズム(外見至上主義)」。世間の価値観やメディアを通して伝わる情報をあらためて見直してみると、日本はまだまだルッキズムだらけであることに気づかされます。「女」にまつわる執筆・取材を続けるライターであり、『だから私はメイクする』を刊行した「劇団雌猫」のメンバーでもあるひらりささんが、自身の過去の体験から、ルッキズムから自由になる方法を考えました。

「自分の顔は好きですか?」

この質問を投げかけられたときに、てらいなく「YES」と答えられる人はどれだけいるのだろう。少なくとも私は、20代半ばまでは「NO」を選択する側の人間だった。

一家の長女として生まれ、祖父母にとっても初孫で、周囲から投げかけられる「かわいい」を素直に受け取って、すくすくと育った。「正直子供なんてうるさくて小汚くていらないと思っていた」とサバサバと語る母も、私が生まれてからはコロッとスタンスを変えて「りさは安達祐実に似てるよね」なんて親ばかを言っていたくらいだ。通っていたクラシックバレエの発表会写真を見ても、濃い口紅とキリリとした眉に負けない凛々しい表情をした自分の姿が残っている。

共学の大学で待っていた「洗礼」

戦況が変わるのは、中高一貫の女子校に進学してからである。いい意味でも悪い意味でも人目を気にする必要がなかった女子校生活のなか、母に丁寧に身だしなみをととのえてもらう時代も過ぎた私は、バレーボール部のしごきに耐えられずに退部し、間食とインターネットを貪る生活を続け、むちむちとした体型とボサボサの髪、ダサくて体型を隠すような私服ばかりを着るようになっていた。

「ブス」という言葉を投げかけられる機会はなかったけれど、他の子のように文化祭でナンパされるようなこともないし、自分が少女漫画で見てきた主人公たちとも、当然安達祐実さんとも類似点はなく、クラスメイトのなかでも劣等感があって、「とりあえず写真にうつらない」努力をこっそりしていた。

それでも、「大学デビュー」すれば形勢逆転するかもしれない……と、淡い期待をいだきながら男女共学の大学へと進学したが、そこで待っていたのはむしろ、比較と選別の洗礼だった。

先輩クラスとのオリエンテーションでは、「かわいい」子のそばに人が集まり、サークルの説明会イベントではテニスサークルの勧誘が、やはり同じ子たちに群がる。自分のことを「イケてる」と思っている男子はさらにその外側、「学内女子はNG」のインカレサークル(複数の大学の学生がメンバーとなるサークル)に入って、より「かわいい」「きれい」に磨きをかけている女子たちとの出会いに夢中になっていた。

明白な言葉で「ブス」と言いはしない最低限の分別はある空間だったけれど、だからこそ、ふとした瞬間に出る、男性側の「採点」する視線に、たまらなく傷つくことがあった。

異性の「採点」にさらされて…

よく覚えているのが、大学3年の頃所属していたゼミでの一幕だ。そのゼミには、リスみたいにクリっとした目で、野の花のように可憐なたたずまいの女の子がいた。いわゆるモテを本人が狙っているわけでもなく、本人も周りも真面目に勉学に励んでいたから、私も素直にその子が好きで、「Yさんってかわいいよね〜」と周囲と一緒に言っていた。

しかし、私が髪を切ってゼミに行った日、事件が起きた。始業前につるんでいた男子の一人が、私に「ちょっと後ろ向いてくれない?」と声をかけてきたのだ。一体何なんだろう? 背中に虫でもついているのだろうか? と、けげんに思いながらその通りにすると、彼は他の男子に確認するようにこう言い放った。

「ほら、こうやって見たらYさんと同じじゃん?」

きっと私はその前から、自分の顔を「かわいい」とは思っていなかった。でも、自分の顔を「嫌い」になった、何がしかの自尊心を手放したのは、きっとこのときだろうと思っている。そのとき、誰も「そういうこと言うのやめなよ」とは反論しなかったことや、私自身も、あいまいに笑ってその場をやり過ごそうとしたことを含めてだ。

別に帰宅してから泣き崩れたとか、そこで醜形恐怖症になって整形に走ったとか、二度と男性の目を見られなくなったとか、そういう劇的なことは一切起きなかったが、その一言はずっと心の中に残っていた。そして、そういうジャッジに対して非と言えないような人間の集まりにそのままいることへの無意識の抵抗があったことも、法学部の自分がそのまま法科大学院に進学して法曹を目指すルートをとらなかった理由の一つではあったかもしれない。

こんなふうに、自分が「採点」にさらされたエピソードを書いたけれど、実際は、私もたくさんの場面で「採点官」になってきたと知っている。

前述のYちゃんを旅行に誘ったり二人で遊んだりしていたのは、Yちゃんが「かわいい」からだったし、その奥底には、かわいいかわいい言っているだけで近づかない暗黙の了解をとりあっている男子たちへの優越意識もあったはずだ。「かわいい」を価値だとする世界に自分も身を浸しているからこそ、その価値を持たない自分の顔を嫌いになったのだろう。他人の価値観に傷つくとき、そこには、同じ価値観に染まった自分の存在がある。

どうすればルッキズムから自由になれるのか

じゃあ、すでに出来上がった美意識から自由になるにはどうしたらいいのだろうか? 

ファンデーションのカラーバリエーションや、プラスサイズモデルの隆盛といった「多様性」「みんなが美しい」のトレンドは、ひとっ飛びに単一の価値から脱却できる素晴らしい流れだ。

しかしその一方で、整形やメイクを駆使して社会にインストールされている「美」に寄せ、コンプレックスを克服しようとする人たちのことも、あるいは、自分の顔も他人の顔も見ることをやめ、「美」の物差しを用いること自体に声をあげる人たちも、それぞれ、凝り固まった美意識の中で戦う仲間だと信じている。

私自身、美の多様性を心から受け入れることができるようになったのは、メイクや美容のテクニックによって、社会にあわせた「美」を追求してみた結果、周囲からポジティブな言葉を得ることができてからだった。無意識にとらわれていた基準をクリアする経験を経たからこそ、その基準から自由になれた部分があったと思う。

だから大事なのは、何が「美しい」か、ではないと思うのだ。自分の顔、ひいては自分を「好き/どちらでもない」になれる方向に向かえるのであれば、全部が正解だ。そして、自分が誰かの持つ属性に対して投げる言動が、その誰かが誰か自身を「嫌い」になってしまう言葉ではないか、ということを、少しでも多くの人が気づかえるようになるならば、ルッキズムどころか、その他のさまざまな差別も、無効化されるのではないだろうか。

私は、私の顔をもっと好きになりたいな、と思う。

【続きはこちら】:「採点」されたくなかった私が、美容・メイクを好きになった3つのステップ【ひらりさ】

1989年東京生まれ。会社員として働く傍ら、ライター・編集者として活動。、FRaU、マイナビウーマンで連載中。オタク女子ユニット「劇団雌猫」のメンバーでもあり、編著に、『浪費図鑑』(小学館)など。
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