彼と共に過ごした私が死ぬ。失恋ってそういうこと。
●本という贅沢。33 『対象喪失 悲しむということ』(小此木啓吾/中公新書)
いきなりガチな話で恐縮ですが、私にできた人生初めての彼氏は、初デートの直前にバイクの事故で死にました。平成が始まったばかりで、まだケータイもなかった。
当時私は中学生で、彼は隣町の高校生だったので、私はそのニュースを彼の死から数日後、デートの約束をしていた日の数日前に知りました。その時にはもう、お葬式も終わっていた。
多分、中学生は中学生なりに、自分を守ろうとしたのだと思う。私は彼の死を受け止めることを拒否し、失恋したんだ、と思うことにしたようです。彼は私のことが好きじゃなくなったんだ。だから、デートをすっぽかしたんだ。彼はひどい男だったんだと考えるように、自分を仕向けました。
「お付き合いしましょう」「そうしましょう」となるまでには、(当時生きてきた年数に比べたら)まあまあの時間がかかっていた。文通のやりとりも結構あった気がする。だけど、私は彼が死んだことをすっかり忘れた風にして、あー、失恋した、失恋。次いこ、次。って感じで、その後の人生を送ってきた。誰かと付き合っている時も、結婚してからも、彼のことは全く思い出さなかった。
その彼の記憶が、フラッシュバックのように襲ってきたのは、去年の春のこと。その当時私は、ある故人のノンフィクションを書いていた。
最後のチェックである校了紙を確認していた時、それは突然起こった。
その書籍に書かれた(というか、私が書いた)「人は命が尽きたときに死ぬのではない。誰にも思い出してもらえなくなったときに、初めて死ぬのである」という一文を読んだとき。
ぱーんと頭の中で花火が弾けたような感覚があり、次の瞬間、私を失恋に追いやった彼のことが次々と思い出された。
もう30年近く思い出したこともない彼の名前や、大きな体や、いかにも不良っぽい髪型や、ムースの匂い。丸っこい女の子のような文字が、脳裏になだれ込んできた。
そして「いや、違う」と思った。
私は彼に失恋させられたんじゃない。彼は死んだのだ、とはじめてちゃんと認識した。彼はもう、いない。
彼のことを一番思い出してあげられるはずの人は私だったのに、ひどい男だったとか言って忘れようとしてごめんなさいごめんなさいごめんなさいと、吐くくらいに涙がこぼれてきた。
「人は命が尽きたときに死ぬのではない」という文章はブーメランになって、私に突き刺さった。
もうすぐ平成も終わる。長い時間自分を騙し続け、悲しむことを後回しにしたツケは、そのあとかなり尾を引いた。
私の場合は、大切な人の死を失恋だと処理したけれど、失恋もまたひとつの死だと言えるだろう。
人は、誰に対しても同じ自分で接するわけではない。友人Aさんに対してはAさん用の自分で接するし、恋人Bさんに対してはBさん用の自分で接する。ということは、恋人Bさんを失うということは、そのBさん用の自分も失うということなのだ。それは、ある種の壊死を意味すると私は思う。
そんな自分の一部の(場合によっては大部分の)『死』が失恋なのだから、失恋したら忌引をとるべきだし、喪に服していい。
しかも、死別なら多くの人と別れの儀式ができるが、失恋ではそれができない。死別ならその人と二度と会えない苦しみと対峙しなくてはならないが、失恋ではその人とやり直せるかもしれないという、希望という名の絶望に対峙しなくてはならない。
失恋ほど、苦しい離別はないと思う。
『対象喪失』でも問題提起されているのだが、ちゃんと悲しむことをサボると、そのツケは後に大きくなってはねかえってくる。近代の人たちは、その悲しみの作業ができなくなっているから、喪失を引きずり、時には心を病んでしまうのだそうだ。
古典だし、決して読みやすい本じゃないし、telling,世代には合わないと言われるかもしれないけれど、どうしても紹介したかった。
正しく悲しみ、そして、いつか立ち直る手立てを、この本は教えてくれる。
- 「失恋を克服する本って、ありますか?」という私の質問に、3人の編集さんが、この『対象喪失』をあげてくれました。書かれているのはおもに死別による喪失についてだけれど、失恋にも同じメカニズムが働く部分は多いと思う。喪失体験という敵を知っていることで、戦えることもある。失恋喪中に読んでほしい一冊です。
より、具体的な手立てを知りたい時は、『NYの人気セラピストが教える 自分で心を手当てする方法』もおすすめ。
それではまた来週水曜日に。