Presented by ルミネ

サステナブルバトン

「庭で見つけた“発見”を作品に」変化し続けるアーティストasatte羽田麻子さん

サステナブル・エシカル業界で活躍する人にバトンをつなぎインタビューする「サステナブルバトン」。第11回は、神奈川県葉山町で、ジュエリーやオブジェを制作するasatte羽田麻子さんです。日常のささいな風景にハッとさせられる経験から、作品のインスピレーションが生まれると話します。仕事も住まいも「今も発展途上」と話す羽田さんの暮らしは、「エシカル」と色濃くつながっていました。

●サステナブルバトン11

一般社団法人はっぷ代表の大橋マキさんから羽田麻子さんへのメッセージ

共通の友人が羽田麻子さんの革製ブローチをオーダーメイドしてプレゼントしてくれたのがきっかけで麻子さんとのご縁をいただきました。
麻子さんのモビール展にお邪魔したばかりですが、小さな自然のチャームポイントを見つける唯一無二の観察眼と感性が本当に素敵で憧れます。
制作過程もそれはそれは緻密で丹念で……それでいて作品には葉山の空みたいな大らかさもあって、違った時間が流れています。麻子さんを通して、どんなふうに自然物がアクセサリーや造形に姿を変えるのだろう!?
その魔法の秘密をお聞きしたくて、バトンをお渡しします。
羽田さんの作品、左「ツリバナ」イヤリング、右「しずくドロップス」指輪

「好きなことは職業にしない方がいい」

――大橋マキさんとはどのようにしてつながったのですか?

羽田麻子さん(以下、羽田): 一昨年、親しい友人から「マキさんにasatteのブローチをプレゼントしたい」という相談を受けました。マキさんは私のグループ展に来てくださったことがあったようなのですが、まだお話したことはありませんでした。

マキさんが葉山つながりプロジェクトの活動をされる中で、「ホーリーバジル」という植物を栽培されていることを知りました。そのイメージに沿って革のブローチをオーダーメイドでつくりました。

そのメッセージをマキさんが汲み取ってくださり、ブローチをつけられた写真をご自身のSNSにアップしてくださったのですが、その付け方がとても素敵でうれしかったです。

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――ジュエリーアーティストになろうと思われたきっかけを教えてください。

羽田: 母がジュエリーアーティストで、物心ついた時から母は自宅の一角で常に何かを作っていましたね。彫金の技法で、金銀に宝石を組み合わせたり、時には真鍮や銅に骨董ガラスなども用いたユニークな造形作品が多かったです。その影響もあり、私も昔から物作りが好きでした。

母は器用で造形的なセンスがありましたが、私や弟には「好きなことは職業にしない方がいい」と言っていました。好きなことを仕事にすることで、本当に自分がやりたいことと、お金を稼ぐことのはざまで葛藤が生まれることを身をもって感じていたからだと思います。

そんな母の言葉を受けて、私が選んだのはデザインの道。就職の際、第一希望だったのがデザイナーの五十嵐威暢氏の事務所でした。学生時代、五十嵐氏の本に感銘を受け、「五十嵐さんの元で働きたい」と思っていたんです。でも、残念ながらスタッフの募集をしていないと言われてしまって。

そこで、建築関係の仕事に就きましたが、「人生の大半を費やす仕事は好きなことの方がいいのでは」と思い、仕事のかたわらジュエリー制作を始めました。

転機が訪れたのは社会人になって数年後のこと。五十嵐氏の事務所に人員の空きが出たのを聞きつけました。私は会社を辞め、背水の陣で再び応募をした結果、採用されました。25歳の時、念願だった五十嵐氏のアシスタントとして働くことになりました。

今も五十嵐氏とは仕事をしていて、かれこれ25年ほどの付き合いになります。公私ともに影響を受けている方ですが、東京から葉山に移住することになったきっかけも、元を辿れば五十嵐氏との出会いが関係していると感じています。

羽田さんが身につけているのもご自身の作品。「ワカメ」イヤリング

生産者の「顔」が見えると意識が変わる

――そうなのですね。葉山に引っ越された経緯を教えていただけますか。

羽田: 18年ほど前、ロサンゼルスに住んでいた五十嵐氏が帰国するにあたり、日本での家探しを手伝いました。その時、五十嵐氏が選んだ場所が葉山のすぐ近くの秋谷だったんです。それがきっかけで葉山という土地を知り「なんていいところなんだ!」と思いました。

当時は東京に住み、東京で仕事をしていました。メールでも仕事ができつつある時代に入っていたので、郊外に住みながら東京で仕事をする生活も可能だと思ったんです。そこで、家族と相談し、思い切って三浦半島に移住することを決めました。

葉山での暮らしは15年になります。今は築53年の一戸建てをリノベーションして住んでいるのですが、いまだに台所は断熱材が丸出しになっていて、ベニヤ板が剥き出しになっている部屋もある「発展途上」の家です。でも、今の暮らしを気に入っています。

――「羽田さんならでは」の今の暮らしの良さを教えてください。

羽田: 我が家には薪ストーブがあり、使用時は煙突から煙が出ます。それを見た近所の方が不要になったウッドデッキや古材をくれるんです。庭師の方が剪定した木を、家の前に置いていってくれることもあります。

そういう、廃材ひとつにしても無駄にしないところ、そして、薪ストーブひとつで人と人の輪が生まれるところが、葉山の暮らしの良さだと感じています。

また、近所で農業をされている方たちが作られた「旬の野菜」のおいしさを日々感じています。霜が降りた少し後に、キャベツや大根を買うと本当においしい!そのおいしさを子どもたちも感じているのがまたうれしいです。

次男の同級生のご両親は酪農家で、牛にはどのような肥料を与え、どう育てているかを教えてもらったことがあります。洋服に関しても、作家仲間が作ったものを愛用しているのですが、「あの人がつくった」と思うといっそう大事にするようになります。

生産者の顔が見えると、食やモノとの向き合い方が変わってくると感じています。

庭で見つけた「発見」を作品に

――今の葉山での暮らしは制作においてどのような影響を与えていると思いますか。

羽田: 私はガラス玉が好きなのですが、木々の枝の先に朝露や雨粒がついている様子を作品にしたことがあります。そういう日常のささいな風景にハッとさせられて、インスピレーションが生まれることはありますね。

また、仕事の合間の息抜きで庭に出ることが多いのですが、しゃがみ込むだけで見える景色が異なるんです。その時見つけた「新たな発見」を作品にしたこともありました。

以前、革を使ったアクセサリーを作っていたのですが、水滴を表現するためにガラス玉を組み合わせたいと思いました。買ってきたガラス玉での表現を試みましたが、なかなかイメージ通りにはいかず……。

そこでガラス作りに挑戦することを決め、試行錯誤をして技法を習得しました。ガラス玉を用いたジュエリーの制作過程で、500回ほどガラスを割りました。それでも、そのチャレンジ自体を楽しいと思えるんです。

――作品の「完成」は、どのようにして決めるのでしょうか?

羽田: 作り始めると次の道が見えてくるので、常に発展途上な感じです。その中で大切にしているのは「自分でつけてみたいか」ということ。

個展で作品を買ってくださる方が持ち帰られるのは、そのうちの「ひとつ」です。集合体でも個体でも、作り手として恥ずかしくないものを世に出すことはいつも心掛けています。

作品というのは不思議なもので、「いいのができた!」と思っても、1年後に見るとイマイチに感じることもあり、その逆でイマイチだったものが、よく思えたりもします。

これまで後悔はたくさんありますが、今は「これは私の作品」と言えるものができてきていると感じています。

まるで自然の一部のような羽田さんの作品。「kukka」モビール photo by Koji Suga

コロナ禍で目覚めた、新たな挑戦

――最後に、今後の展望を教えてください。

羽田: ガラスと金属と革、複数の素材を扱えるようになったことで自分が作りたいものを作る術が一気に広がりました。以前は、彫金作家の母を意識して、敢えて彫金には手を出さないでいましたが、自分の作りたいものを表現するために、彫金は必要な技法だったということがわかりました。

今後チャレンジしていきたいのは、オブジェの制作です。そのきっかけのひとつとなったのは、新型コロナウイルス感染拡大でした。自宅で過ごすことが多くなった今、アクセサリーを身につける機会は減っています。その一方、家での時間をより豊かにするためのガラス玉のオブジェやモビール、置きものなどを制作していきたいと思うようになりました。

そうなると、今度は私の師である、五十嵐氏の領域。五十嵐氏とも、これまで分野がかぶらないように心掛けてきたのですが、不思議とだんだん近づいている。

母といい、五十嵐氏といい、意識していた人に自然と歩み寄れるようになったこと。それもまた、変化だと感じています。その時のベストを尽くしつつ、そういった小さな変化を大切にしていきたいと思います。

■羽田麻子さん(はだ・あさこ)さんのプロフィール
1971年東京生まれ、大分県育ち。筑波大学芸術専門学群で視覚伝達デザインを学び、卒業後は建築関連の仕事に従事。97年から彫刻家・デザイナーの五十嵐威暢氏のアシスタントをしながらジュエリーの制作活動をしている。2014年にasatte(あさって)として独立。名前の一部「asa(麻子)」の「te(手)」と「明後日」の文字をかけた屋号にした。
https://www.instagram.com/asakohada/

同志社大学文学部英文学科卒業。自動車メーカで生産管理、アパレルメーカーで店舗マネジメントを経験後、2015年にライターに転身。現在、週刊誌やウェブメディアなどで取材・執筆中。
写真家。1982年東京生まれ。東京造形大学卒業後、新聞社などでのアシスタントを経て2009年よりフリーランス。 コマーシャルフォトグラファーとしての仕事のかたわら、都市を主題とした写真作品の制作を続けている。
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