編集部コラム

いよいよバシャールが地上波に登場した「今」、思うこと

毎週日替わりでお送りしている「telling,編集部コラム」。名誉編集部員ケチョップではない、もうひとりの土曜日担当です。みなさま、どうぞ一時(いっとき)一服、お楽にお立ち寄りを……

今週のナリくんの連載コラム、「意識、どんどん下げてこう。by ナリくん14」は、「終わりが決まると、今やること、やりたいことが見えてくる」というお話でした。ここでいう「終わり」とは「死ぬとき」のこと。このテーマ、皆さんは考えたことありましたか?

私は、「死ぬのかも」と思ったことは何度かあります。なかでも記憶に強く残っているひとつは、夜の新宿で追突事故に遭ったときのこと。
いきなりの衝撃とともに、乗った車があらぬ方向に動いていき、中央分離帯に激突。
不思議なことに、ものすごい衝撃とスピードだったはずなのに、すべてがスローモーションで、音のない世界でした。超ハイスピードカメラで撮った超スローモーション……すべてが一瞬ずつ止まった「静止の連続」みたいな世界を見ていました。

分離帯に激突したとき、車窓越しに目に入ったグリーンベルトの植栽は、葉脈の一本一本がハッキリくっきり、視力5.0になったか?と思うほど、葉の表面の微細な凹凸の一つひとつまでがイキイキと鮮明でした。

一生の走馬灯がめぐる時間は本当にあるかもしれない

似たような体験を、その数年前にしていました。
夜道であとを尾(つ)けてきた変質者に殴られたときです。理不尽このうえない強烈パンチを両側頭部に2発くらって、耳とこめかみから流血して倒れ込んだのは、誰かのお宅の塀の生け垣。このときもまた、葉脈でした。超ハイスピードカメラのストップモーションと、無音で視力5.0の世界。

ここで私が何を思ったかというと、
「なんで私がこんな目に……」
そして、
「もしやこれが、超感覚というものか!」
「人間、究極の非常事態に陥ると、日頃は眠っていた脳の機能が覚醒して、こんな体験をするんだな」
「でも、うわさに聞く『死ぬ前に一生すべてを見る走馬灯』は見えないぞ」
「ということは今は死なないんだ。よかった。けど、異様に痛いよね……」

これらを本当に思いましたが皆さんちょっと、想像していただけますか。
車が追突されて中央分離帯にぶつかるのも、全力パンチをくらって倒れ込むのも、ほんの一瞬、1秒、かからないですよ。

そんな「一瞬」であるはずが、体感では長い、永遠とも思える長い時間でした。思考の一つひとつが非常にゆっくり、冷静に、脳内をめぐっていきました。

(ペキンパー映画の銃撃戦のシーン、人がわらわら死にまくるシーンはなぜ毎回、いちいちしつこいスローモーションなのか?もこのときよくわかりました。「ああ、こういうことだったのね」と)

「一瞬」のはずが、「永遠」(に思えるスケールの世界)になる。
これなら確かに、長い一生分の走馬灯も見られるでしょう。何より、そのとき理屈抜きに確信したことがあります。それは、

「一瞬」に、「すべて」がある。
「一瞬」は「永遠」であり、「永遠」は、「一瞬のなかにすべて詰まっている」。

どこかのラブソングの歌詞のようですが、時間、というものの定義が、大きく揺らいだ経験でした。

走馬灯がめぐるはずの「今」、やっぱりない?

さらにさかのぼって4歳のころ、自分内でブームになり、毎晩寝る前にやっていた遊びがあります。名付けて「今は今なんだ」チャレンジ。
「今は今なんだ」と心の中で言いながら、その「今」なるものをつかまえる、という意味不明なゲームです。

……。

いいから、ちょっとだけ試してもらえませんか。
できますか?「今」、捕獲できますか?
どんなに早口で「今は今なんだ!」と言おうと、その瞬間に「今」は目前をすり抜けて、過去へと逃げ去ってしまいます。

子どもなので、バカなので(今もです)、チャレンジを続けました。早口のスピードを上げたり、夏の夜の蚊をとらえるように超速で手を「パン!」とたたいたり。でも決して「今」はつかまえられません。

たたく両手の隙間をなくすようにと、頭の中で、センチからミリ、ミリからミクロン、ミクロンからナノ……とイメージする戦術にも変えました(幼稚園児ですからミクロンだのナノだの知りませんけど)、そこでわかったのは……

「今」は、ない。

衝撃の事実。

証明しようがありませんが、「今って、ないよ」。これは、私のなかで真実となりました。
その後、時を経ての「瞬間のなかに永遠がある」説。
「今」はないはずなのに「瞬間」があり、そこに「永遠」がある。このビッグな自己矛盾をいったい、どうしたものか。

答えはですね、「在る」んです。すべてが。「無い」のなかに。すべてが「在る」。
(そして「無い」)。

さあ、ぎゃーてーぎゃーてー、ぱーらーぎゃーてー。
摩訶般若波羅蜜多の世界になってきましたよ。4歳の自分が、自分史上最高に悟っていたというもうひとつの事実も、明らかになった次第です。

私たちが生きられる場所は、ひとつしかない(らしい)

話が、(ないはずの)だいぶ明後日の方向に行きました。リアルの世界に戻ってきましょう。
人間、すべて、70億人全員が、生きられるのは「今だけ」です。
未来にどんな希望を抱こうが、どんなに怖れて備えようが、過去をどんなに悔やもうが、生きられるのは「今」オンリー。

「○○になったら、これをする」
「あのとき○○はなぜ、こうなったの……」

どちらも、決して生きることのできない「未来や過去の今」が前提で、エアです。完全にバーチャルです。

やせたら、結婚したら、リタイアしたら、人生のKPIを達成したら……、
あそこであの人がこうじゃなかったら……、
だからいま我慢すれば、いまはこうしないと。

生きられない=存在しない時空の今にオツムが行っている限り、(「今」のためを思っているようでいて実は)肝腎の「今」がお留守です。生きられる場所に存在していない。

これはつまりその人は、「生きてない」ということではないでしょうか。

お前はもう、死んでいる

生きましょう、もっと。あなたも、私も。
その場所は、すべてがあってすべてがない、「今ここ」以外にありません。

倒れるときも車窓ごしにも、「今という永遠」に見た葉脈は本当に、生き生きと輝いていました。今、どう在りたいか、今、何を望むか、どんな心地か。それだけ、たったそれだけを見ていれば、それが「生きる」ってことかもなと、“元・悟った人”は思うのです。

telling,創刊副編集長。大学卒業後、会社員を経て編集者・ライターに。女性誌や書籍の編集に携わる。その後起業し広告制作会社経営のかたわら、クラブ(発音は右下がり)経営兼ママも経験。
telling,Diary