「すべての女性の“女性性”をゆさぶる物語」#MeToo発端を描いた書籍『その名を暴け』翻訳者・古屋美登里さん(前編)
性的被害を受けた女性たちが声を上げた「#MeToo」運動の引き金となったのは2017年10月、ニューヨーク・タイムズが発表した1本のスクープ記事でした。ハリウッドの大物映画プロデューサー、ハーヴェイ・ワインスタインが長年にわたって女優や女性従業員に性的暴行をはたらいてきたという記事はまたたく間に広まり、世界的なムーブメントへと発展していきました。
『その名を暴け―#MeTooに火をつけたジャーナリストたちの闘い―』(新潮社)は、2人の女性記者による調査報道の記録をまとめたノンフィクションです。ストーリーに感銘を受け、翻訳を担当した古屋美登里さんはどんな思いで本作にかかわっていったのでしょうか。
同じ女性として「この作品を世に出さなければ」
――この作品を初めて読んだ時、古屋さんはどのように感じましたか。
古屋美登里さん(以下、古屋): アメリカで原作(原題:She Said: Breaking the Sexual Harassment Story That Helped Ignite a Movement)が刊行されたのは2019年9月のこと。私が最初にこの本を読んだのはその翌月でした。
ひとことで言って、感動しました。読み終わってすぐに「これは絶対に世に出さないと」と興奮して、編集者に電話してしまったくらい(笑)。
というのも、本の中で描かれている中心人物は、みんな女性なんです。ニューヨーク・タイムズ(以下、タイムズ)の記者であるジョディとミーガンをはじめ、編集者のコルベット、性的嫌がらせの被害者など……。白人や黒人、アジア人、著名人から一般人まで、たくさんの女性が見えないところで闘っていて、その思いに突き動かされる形で、記者は真実を明らかにしていく。それを伝えることで、世の中が変わっていくんです。
つまりこれは、女性たちの勇気と努力の物語です。1章読むごとに自分のなかに力がわいてくるのがわかりました。
――特に印象に残っている場面はありますか。
古屋: 被害者のひとりである女優のアシュレイ・ジャッドが、実名で取材に協力すると決心したところです。
「自分は性的被害者である」と公表するには、大変な覚悟が必要です。偏見の目で見られ、今まで築いてきたものすべてを失ってしまうリスクすらある。タイムズが取材した被害女性のなかにも、「沈黙」を選ばざるを得なかった女性が無数にいたとあります。
そんななか、有名な女優が率先して行動を起こしたことは、ある種の「象徴」として大きな注目を集めました。結果としてムーブメントの起爆剤となり、数多くの女性たちが後に続くことができました。
――アシュレイがタイムズの記者ジョディに電話をかけて「名前を出す心の準備ができた」と話す場面は、まるで映画のワンシーンのような臨場感がありました。
古屋: あれはすごくいいですよね。ジョディがすすり泣きながら電話を受けて。近くにいたほかのメンバーたちは、ジョディの表情を見て何が起きたのかを察するという。タイムズ編集局のチームワークもすばらしいと感じました。
ああやってたくさんの人がいる場面を翻訳するときは、誰がどこにいて、どんな反応だったのかをひとりひとり思い浮かべます。自分で演じながら作業することもしょっちゅうです(笑)。
翻訳は口寄せのようなもの 入念な下調べでつかんだ個性
――本作は400ページを越えるボリュームですが、翻訳はどのようにして取り組まれたのですか。
古屋: やり方としては、最初の2カ月ほどかけて全部を訳して、その後4カ月ほどかけてブラッシュアップしながら、完成に持っていきました。
なぜブラッシュアップにそんなに時間をかけるかというと、英語の文章を「辞書どおり」に訳しただけでは、翻訳とは言えないからです。もっと、言葉の後ろにあるもの……、たとえば文化的な背景、登場人物のクセや性格、においなど、いろんなことを理解したうえで「訳し分け」をしていくのが翻訳家の仕事なのです。
――たとえば、どんな訳し分けがあるのでしょうか。
古屋: わかりやすいのが「口調」です。英語は比較的フラットな言語ですが、日本語では性別や年齢、その人のキャラクターによって言葉づかいが大きく変わります。そこで個性を出さないと、誰が誰やらわからなくなってしまうんです。
――女優のアシュレイが話すシーンでは、言い回しの独特な雰囲気から、性被害と向き合う彼女の信念が伝わってきました。こうしたひとりひとりの人物像は、どうやって理解していくのですか。
古屋: 手に入る限りの資料を、ひたすら読み込みます。ウィキペディアに載っているような著名人ならそれを読みますが、なければその人がどこの学校を出て今まで何をしてきたのか、自力で調べます。
たとえばタイムズ記者ジョディとミーガンについて、私は彼女たちの写真を見ただけで、実際に会ったことはありません。翻訳が決まってすぐにタイムズの定期購読を申し込み、これまで2人が書いた記事を読んでいきました。
この本には50人近い人物が出てくるので、それらを整理するだけで大変なことでした……。読者の方が読みやすくなるよう、日本語版オリジナルの資料として巻頭に「主要登場人物表」と「関連年表」を入れて、情報をまとめています。
――翻訳する方のイメージによって、キャラクターが変わってくることも?
古屋: 加害者のワインスタインは、女性の敵とも言える存在。彼に対してものすごく腹が立って、最初はその口調を「下品な男」らしく訳していたんです。でも、あまりに下品だと「こんな男に被害を受ける女性を想像したくないな。それに仕事上では『神』とも呼ばれる人物であったわけだし」と思い直して、やや知的な口調に整えました。
ただ、私はこういった場合でも、人物像に関して「自分の判断」をすることはほとんどありません。ジョディとミーガンの視点に立って、2人の感じた世界をそのまま翻訳しているつもり。いわゆる「口寄せ」のような感覚ですね。この本は彼女たちの言葉で書かれた物語ですから。
タイムズ記者が「声に出せない」女性たちに伝えたメッセージ
――女性を中心としたこのストーリーを、同じ女性である古屋さんが翻訳したことに、どのような意味があったと思われますか。
古屋: 訳者として、自分が女性であることは強く意識しました。やっぱり読んでいて、共感の度合いがまったく違ったと思います。だって他人事じゃないですから。
私自身、過去には痴漢や嫌がらせを受けて悔しい思いをしたこともありました。この本を読んでいると、そういう過去の出来事が蘇ってくるんです。読者のなかには被害女性たちの痛みがわかりすぎて辛くなる方もいるかもしれません。
――#MeToo運動の影響もあり、性的被害に対する世間の認識が変わりつつあります。一方で、被害を受けても声に出せない、むしろ「出すべきではない」という考え方も残っていますね。
古屋: なくならないですよ。「これを言ったところで誰が得をするんだ」と思ってしまう。たしかに被害を公表した本人はリスクを抱えるだけです。ただ、ジョディとミーガンは被害女性に取材を申し込む際に、こんな言葉をかけていました。
「過去にあなたに起きたことを変えることはわたしにはできない。でもね、わたしたちが力を合わせれば、あなたの体験を他の人を守るために使うことができるかもしれない」
――自分の体験を共有することで、次の世代を変えていくという考え方ですね。
古屋: それを信じてやっていくしかないと思います。実際のところ、世の中はどんどんよくなっているんです。
私の祖母は明治27年に生まれましたが、その当時は、女性だという理由で高等教育を受けさせてもらえず、6歳の時にはすでに許嫁が決まっていました。母は女学校まで行きましたが、結婚相手は両親が決めました。それが私の時代になると、好きな大学に行けたし、結婚相手も自分で選ぶことができた。たった3世代で大きな進歩です。
私には今年28歳になる娘がいます。じゃあ娘の時代はどうなのかと考えると、結婚するしないを自分で選べるし、生き方や仕事のやり方にも多様性が出てきましたが、大きく進歩はしていないかもしれない。でも大切なのは、それぞれが「変わる」と信じて、自分にできる行為を少しずつでも続けていくこと。私にとってはそれが、この本を翻訳する意義だったと感じています。
●古屋美登里(ふるや みどり)さんのプロフィール
翻訳家。1956年、神奈川県生まれ。早稲田大学教育学部を卒業後、文芸誌『早稲田文学』の編集に従事。独学にて翻訳を学び、実用書や専門書、文学作品など幅広いジャンルの翻訳を手がける。主な訳書にエドワード・ケアリー『おちび』(東京創元社)、イーディス・パールマン『蜜のように甘く』(亜紀書房)、デイヴィッド・マイケリス『スヌーピーの父 チャールズ・シュルツ伝』(亜紀書房)など多数。
『その名を暴け―#MeTooに火をつけたジャーナリストたちの闘い―』
著者:ジョディ・カンター、ミーガン・トゥーイー
翻訳:古屋美登里 価格:2,365円(税込)
発行:新潮社
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