美は1日にしてならずだから、今日もわたしたちはあがくのだ。
●キレイの定義 01
「外人」とからかわれて
初めてデパートのカウンターに行ったのは、高校3年生の夏だ。渋谷西武のクリニークに行った時のことを、今でも思い出せる。
小さい頃は絶望的な天然パーマ、おまけに赤毛で、男子に「外人」とからかわれていた。本当に本当に嫌で、なんで私は黒髪ストレートじゃないんだろうと親を恨んだ。からかう男子を毎日「殺す」と思っていたので、喧嘩も絶えなかった。(本当に殴る蹴るの喧嘩をしていた!)
幸い中学からは女子校だったので、私の髪の毛のことを言うクラスメイトはいなかった。でも黒髪サラサラストレートがうらやましくて、お年玉貯金を崩してストレートパーマをかけた。
くるくる絶望パーマはそれ以来ましになった。依然として大きなうねりを伴っていたが、「パーマかけたの?」「うらやましい」なんて言われるようになって、自分の短所だと思っていた部分を長所と思えるようになった。髪の色も、当時はギャルブーム全盛期で茶髪が流行っていたこともあり、真っ黒でない色がうらやましがられるようになった。この頃から、すこしだけ自分の容姿を認められるようになった。
18歳、スキンケアへの目覚め
中学、高校ぐらいからはみんな休日はメイクしたりするようになった。でも、どうにも「顔に色を載せる」という行為になじめず(今なら単に、派手な似合わない色―水色とかーをやみくもに載せてみていたからだということがわかる)、色つきリップと透明なマスカラぐらいが私の「化粧」だった。
高校3年生になり、受験勉強が本格化すると、みんな休日にも遊ばなくなった。もちろん、私も受験生だ。動かない、遊べないストレスからおでこに無数のにきび予備軍のようなでこぼこができた。ドラッグストアで売っている「ニキビ用」という化粧品を使ってみたが、他の場所が乾燥してしまい、さらにひどくなる一方。
18歳の私はその時思った。
プロに聞くしかない。
渋谷を乗換駅にしていた私は、学校が終わって塾に行く前に、渋谷西武に行った。いつも遠目でチラチラと見ていたカウンターに、今日は目的を持って歩いていく。不思議と緊張はなかった。
BAさんは私が高校生だと知るとちょっと驚き(私の学校は私服通学だった)、「メイクとかはいいから、とりあえず今から肌をきれいにしておけばなんとかなるって思うんです」と言った私にまた驚いたようだった。それはそうだ。私だって今高校生にそんなこと言われたら「マジこいつ意識高すぎてやべえな」と思うはずだ。
そして肌にたまる角質やその仕組みを、肌の図(顕微鏡で見るような断面だ)を使って説明してくれ、その日は試供品をもらって帰った。
結果として私はクリニークのスキンケアラインナップを(またしてもお年玉を使って)買い、おでこのニキビはすこしばかりましになった。今思うと、良い化粧品を使っているという満足した気持ちが、効能以上の効果をもたらしたのではないかとも思っている。
以来、デパートのカウンターには数え切れないほど通っている。はじめてアイシャドウやマスカラをつけてもらったのもデパートのカウンターだ。アイシャドウをつけるまえにはコンシーラーを使ってベースを整えれば色が美しく発色することや、おまけについているチップや小さなブラシではなく、大きいブラシを使えば美しく色を載せられるということも学んだ。
「美容」に正解って、あるのかな
いま、私は毎日出かける前に化粧をしている。それは自分なりに似合う色やメイク方法を見つけて、すっぴんよりもメイクをしている顔のほうが好きだと思えるから。でも、肌だけにはファンデーションを塗れない。18歳のあの日、BAさんから「ファンデなんて必要ないですね、本当にきれいな肌」と褒められてから、「ファンデを塗る=負け」のような気持ちがどこかにあるのだ、きっと。
ファンデを塗らなくてもいいように、粛々と肌の手入れは欠かさずにきて、いま37歳。20年前の私に感謝したい、と本当に思う。でも最近ちょっと、お手入れより疲れや代謝の衰えのスピードが上回っているのではないかと不安になることもある。
すっぴんこそ美しい、という人もいる。似合うメイクが美しいという人もいる。ファンデを塗らない素肌感がいいという人も、難を隠した肌こそ正義という人もいる。美の基準は、本当にそれぞれだ。
美は1日にしてならず。
では「美」ってなんだろう?これから、じっくりと考えていきたいと思う。