【古谷有美】ついに女子アナ恒例行事のラスボスに?
●女子アナの立ち位置。05
本格的な梅雨の季節になると、アナウンサー室のちょっとした恒例イベントがあります。カレンダー撮影です。若い年次のアナウンサーが中心ですし、後輩もたくさんいるので、そろそろ私は卒業か? と思っていたら、どうやら撮影がありそうとのこと。昨年まで一緒に撮影していた同期が産休中で今回は参加しないこともあり、そこはかとなく漂う自分のラスボス感に感慨深いものがあります。
先日、その同期も含めたアナウンサー3人でご飯を食べている機会がありました。全員、入社8年目、同僚は出産間近ですし、もう1人は他局の友人でついこの前結婚したばかりです。その3人で話が盛り上がり意見が一致したのが、「後輩の悩みや相談に対する受け止め方」でした。
「ずっとバラエティー番組だけでもいいんでしょうか?」
「番組で求められる面白い返しができなくて…」
たいていはそんな悩みですが、痛いほどわかる半面、「でもこうしてみたら?」という具体的で即効性のあるアドバイスはなかなか思いつかないんです。
彼女たちより少し先のキャリアを歩んでいる分、先が読めるし、アナウンサーのキャリアの中で細かい部分は違っても、絶対こう進むだろうなという道を誰もが通ってくるのを体験しているので、「わかるけど、あと2年後にはこうなれているから絶対大丈夫だよ」ということしか伝えられない。彼女の今の悩みにはきっと応えられてないという後ろめたさと同時に、後輩の相談に対する効果てきめんなアドバイスって難しいなぁと感じています。
後輩アナウンサーだけではありません。いま、レギュラーで出演している「ビビット」で一緒に仕事をするスタッフの中にも後輩がいます。総勢200人近くの大勢のスタッフが関わっている生放送の現場は、たった一人の判断ミスや動きが大きな影響を及ぼします。
朝の情報番組は大きな一枚のシーツ
ある日、新しいポジションについた20代になったばかりのADの女性が、スタジオで自信なさげな動きをするのが気になったので、放送終了後、彼女が1人で荷物を片付けているところに「なんかあった?」と声をかけにいきました。
すると、大粒の涙が…。年上の男性ディレクターやプロデューサーに囲まれて、誰に自分のふがいなさをぶつけていいのかわからない、そんな感情がそうさせたんでしょうね。私までつられてなぜか2人で大泣きしてした後、「わからないことは聞いて。それと、その日うまくできたことも報告してね!」って約束して、それから色々と話してくれるようになりました。
月曜から金曜まで何百万人もの人が視聴する番組作りは、たとえるなら、200人全員で大きな一枚のシーツをしわがないように持つようなものだと思います。以前読んだ本の中でこの表現に出合ったのですが、シーツが大きいほど大変で、そして人の手が多ければ多いほどたわんでしまう。
20代の頃の私は、「はい!シーツ持ちます」って真っ先につかむ役割だったけど、今は、周りを見て、「そこもうちょっと頑張れるかな?」とか「引っ張る力が強すぎるかもよ」とか、場の空気をマイルドにしながら、みんながシーツを持てるようにする、そんな役割を担う年次になった気がします。さらに、30代になってからは、時にはそういう場であえて傍若無人にふるまうというのも、なんだか許されるようになったかなって感じています。
見えないところの場づくり
アナウンサーとしての自分がいる以上、いいものを作る手助けができるなら、しない手はない。もちろん、カメラ回っているところだけ、ニコニコとしていればいいという割り切りもアリなのでしょうけど、私は女子アナに期待されていることの一つに、カメラが回っていないところでの雰囲気作りもあるんじゃないかと思っています。
そして、後輩アナウンサーから現場のスタッフまで、若い子たちのテンションをあげるのも30代になった私の役割の一つだと自負しています。
なぜそうやってつい手をさしのべてしまうかというと、めぐり巡って結局は「自分のため」なんです。自分自身が楽しく気持ちよく仕事をしたいから。誰かがというより、自分が楽しくないと仕事ができないからなんですね、きっと。
若手のいろんな相談や悩みにアドバイスみたいなことは全くしていなくて、一緒に泣くとかふざけて和ませるとかしかできていないんですが、ジャイアン?のせりふじゃないけど、「お前も楽しければ、オレも楽しい。お前が楽しくなければ、オレも楽しくない」精神で周りと接すると、いろんな気づきがあって仕事がグンと楽になる。
おまけに、誰かのためになるし、ひいてはチームのためにもなる...なんて素晴らしい!ぜひ、シーツを前にモジモジしている後輩たちに出会ったら、「ほら、ここつかんでみて」と声をかけてみてください。
構成:山口亜祐子 写真:坂脇卓也