●本という贅沢#175

「いつもと違う景色が見える」という幸福。『ママはキミと一緒にオトナになる』

怪我をしたことで、普段とは全く違う街の景色が見えた、という書籍ライターの佐藤友美(さとゆみ)さん。それは子どもが生まれて感じたことに似ていたといいます。「子どもの視点で世界を見る」。そんな経験を最新刊に綴っています。
さとゆみ#174 愛と皮肉と自虐とユーモア。そして、毒。にしおかすみこさんの『ポンコツ一家』がすごい

『ママはキミと一緒にオトナになる』(佐藤友美/小学館)

1週間前、アキレス腱を切った。
テニスの試合中、ブチッという音がして、「あ、これ、アキレス腱だ」とすぐにわかった。

驚いたのは、妙に清々しい気持ちになったことだ。この感覚は、今思い出しても不思議なのだけれど、なんだかこれから良いことが起こる気がした。なんでだろう。

そーっとテニスコートに座って、一緒にプレイしていた友人に、「やっちゃいました。多分、アキレス腱です」と伝え、救急車を呼んでもらった。その日はギブスで応急処置をされてタクシーで帰った。

松葉杖で歩く街の景色は、普段見ている景色と全く違った。
階段がうまくのぼれず、4段程度の低い階段で、2回転んだ。これは、怖かった。たった10センチの段差があるだけで、行けない場所がある。
ケータイから目を離さずに突進してくる人も怖い。普段の自分の行いを反省する。

私はライターなので、なるべく普段から「いろんな人の視点でものを見る」訓練をするようにしているつもりだ。でも、こうやって否応なく違う視点を与えられ、想像力では全然追いつかないリアルな体験をすることは、本当におもしろい。いろんな感情と思考の扉がぶわーっと開く。

たまたま別件で連絡をとった元編集者の友人にその話をした。毎日新鮮で楽しいと伝えると、

「わお、そりゃすごい!!! いいですよね、いつもと違う景色が見えるって、大人の我々にはたまらない幸福(と思える自分でいられるのが幸福)」

と返事がきて、ああ、それそれ! それな! となった。
私が感じた「なんか良いことが起こる気がする」感覚は、それだったような気がする。

大人になると、自分の価値観が変わるような経験はどんどん減ってくる。よく「他人の靴を履く(人の立場に立ってものを考える)」と言ったりするけれど、実際にやろうとすると、それはすごく難しいことだ。
だから、こうやって強制的に違う視点を与えられると、いろんなことに気づく。あー、怪我してよかったなあと、今、心から思っている。

いま、物理的にできないことはたくさんあるけれど(服を着替えるのも、お手洗いにいくのも、ひと苦労だ)、きっとこの経験を経ることで、私、「できるようになることが増える」と、思った。これまで見えていなかった世界に触れることができるのではないかと思った。

そしてふと、気づいたのだ。
この感覚、何かと似てるって。

そう、子どもが生まれて感じたことに似ていた。

それまで私は、子どもが生まれたら、「できなくなること」が増えると思っていた。だから生むのが怖かった。
でも、実際に子どもが生まれてわかったのは、「できなくなったこともあるけれど、それ以上に、できるようになったことのほうがずいぶん多い」ということだ。

なにより、私にとって面白かったのは「子どもの視点で世界を見る」という経験だ。子どもの目に見えている世界を教えてもらうことで、これまで考えもしなかったことを考えることができた。

我が家の息子は、小学校6年生だ。
幸か不幸か、彼は小さい頃から、大人の都合で発する言葉にとても敏感だった。

「そういうことになっている」と説き伏せようとすると「どうしてなの?」「誰が決めたの?」と何度も尋ねてくる。私を困らせようとしているのではない。本当に不思議なのだと思う。
「じゃあ、僕は、大人になるまで自分の意見を聞いてもらえないの?」と聞かれたこともある。そして、その問いにちゃんと答えようとすると言葉につまってしまうのは、いつも私の方だった。

彼と話をしていると、私が常識だと思って振りかざしている考えを、ひょっとしたら疑ってみた方がいいかもしれないと思うことが何度もあった。

私が発する「正しい(とされている)言葉」よりも、彼が発する「優しい言葉」のほうが、人を救うかもしれないとも思った。
彼と口ゲンカになるたび、「待てよ、これ、間違っているのは私のほうかもしれない」と思うようになった。
そう思ったら、普段私が仕事で対峙している人たちとのコミュニケーションも、私のほうで改善できることがいっぱいあるのかもしれないと思うようになった。

私は留学をしたことがないけれど、子どもと日々接するというのは、「異文化コミュニケーション」みたいなものだなと感じた。
だから、「子育てのエッセイを書いてみませんか?」と声をかけてもらったとき、私が彼に教えたことのほうではなく、彼から私が教わったことのほうを、書いてみたいなと思った。

彼と一緒に考えたいろんなことを書くのは、とても楽しかった。

だけどあるとき、ふと、「これは、子どもを生まないと選択している人や、生みたくても授からなかった人にとって、辛いエッセイになっていないだろうか?」ということが気になった。

なので、担当の編集者さんに、それを尋ねた。するとその編集さんは、
「子どもを生んだ人には生んだ人にしかわからないことがあるし、それは逆もまた同じだと思う。そうやって立場の違う人たち同士が、自分とは違う経験をした人のことを知り合うために小説やエッセイがあるのだと思うよ」
とおっしゃってくださった。

この文章が、そういうものになっているといいなーと願いながら、書き続けてきた。

連載が書籍化されて3週間。
たくさんの方から感想をもらいました。男性からの感想も多かったし、これから生みたいと思っている方からの感想もいただきました。

先日、アキレス腱を切ったことを伝えた友人は、Twitterにこんな投稿をしてくれた。

子どものいない人生を、意志を持って選んだ。子育てエッセイは遠い世界の話かなと思ってた。なのに、読みながら何度も泣いてしまった。 だって私は、かつて子どもだったから。 そして、この世の子どもは我らの子どもだから。「世界を少しでも良くすることに加担しよう」と思える一冊でした。

この感想を読んだとき、すごく嬉しかったし、本当に、この本を出させてもらってよかったなあと思いました。

この本が、いろんな人の手に届いてくれたら嬉しいなあ。
そして、子どもの目を通して見えた世界や、自分が子どものころのことを思い出すことで出会い直した世界について、みなさんと話してみたいなあと思っています。

自分の書評コラムで、自分の本を紹介するのは禁じ手かも、と思いながら、届けーーーーー!!! っと念をこめてお送りします。
読んでもらえたら嬉しいです。

 

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さとゆみ#174 愛と皮肉と自虐とユーモア。そして、毒。にしおかすみこさんの『ポンコツ一家』がすごい
ライター・コラムニストとして活動。ファッション、ビューティからビジネスまで幅広いジャンルを担当する。自著に『女の運命は髪で変わる』『髪のこと、これで、ぜんぶ。』『書く仕事がしたい』など。