シングルマザーが漁業と社長業と子育てに奮闘 坪内知佳さん「すべてが完璧でなくていい」
留学などを通じ、大学生までは航空会社のキャビンアテンダント(CA)を夢見ていたという坪内知佳さん。19歳で病に侵されて夢を断念、大学を中退します。その後20歳で結婚して専業主婦となり、1児を授かるも離婚。翻訳業やコンサル業務を細々と営んでいた時、偶然出会った萩の漁師から漁業の改善を依頼されたことが、その後の人生を大きく変えることになりました。
たとえ立ち止まっても、決して倒れない
坪内知佳さん(以下、坪内): 19歳で感染症にかかり、生死をさまよう経験をしました。当時は、「22で就職し、CAとして働く夢が叶ったら25で結婚して退職、27歳ぐらいで子どもを産む」という自分なりの「完璧な人生設計」を描いていました。
でも、病気を経験したことで自分の人生はいつ終わってしまうかわからないと痛切に感じました。それならば、今後の人生設計に優先順位を付けようと考えました。その時に思い浮かんだ人生で一番したいこととは、子どもを持つことでした。自分の子どもを抱きたいな、と。それで、快復後は大学を中退し、当時のボーイフレンドと結婚しました。そして専業主婦となり、翌年、男の子を出産しました。
――その後は離婚し、シングルマザーとして働き始めますが、ご自身のがんが発覚しました。
坪内: 24歳の時に子宮がんになりましたが、ステージ1にも満たないまだ小さなものでした。腫瘍の数値は月に1回調べるのですが、食生活が乱れ、ファストフードなどで添加物を多く取ると、検査の数値が上がり、肌も荒れる体質であることが分かりました。添加物を止めると、数値も下がり、肌もきれいになりました。そこで食生活に配慮したところ、最初のがんは消えました。
ところが、徹夜するなどハードに働き始め、食生活もいい加減になった27歳の頃、またがんが大きくなってしまいました。そこからは、徹底的に体を気遣わないといけないと思うようになりました。その後、自分の食事はすべて自分で作り、添加物などは口にしないようにしています。以来、自社製品である船団丸ブランドの食品にも、化学調味料や添加物は材料も含めて一切使わないと決めました。
2回目のがんの時、本来ならば子宮を摘出しなければならない状態だったのですが、担当の女性医師の提案で最低限の部分切除に留め、その後、無事に下の子を出産しました。上の息子に兄弟が欲しかったので、とても嬉しかったですね。出産ギリギリまで働いて、産んで2時間後にはオンライン会議に出席するほど順調でした。食生活に気を遣い添加物を取らずに生活し、体調が良かったのだと思います。
――この間、病気に加え、パートナーの死も経験しています。そこからどのようにして立ち直って来たのでしょうか。
坪内: 何かあっても、私は倒れてはいないんだと思います。正確に言うと、立ち止まることはあっても、倒れていられなかった。子どもがいたこともあり、たとえいったん立ち止まっても、倒れずに再び歩き出そうと心がけてきました。
悲しいことがあった時、もちろん私もその日は全力で悲しみ、立ち止まります。でも、次の日からは絶対に歩み出すと決めています。悲しんで、誰かが幸せになるのなら悲しみますし、生き返るのであれば、いくらでも嘆き悲しむんですけど、そうではないですよね。このまま私が悲しみ倒れていたら、子どもはどうなる? マイナスしかなくなる選択をしても仕方がないと思うようになりました。
母親業も社長業も自分のことも30%ずつ
――社長業をしながら2人のお子さんを育てるのは大変ですよね。時間をやりくりするコツはあるのでしょうか。
坪内: 子どもたちはアレルギーが重いこともあり、極力、出張前も食事を作り置きしたりして、ケアしています。自宅と職場が隣同士で、子どもも行ったり来たりできるようにしています。オペレーションスタッフの多くが、子どもを膝の上に置いてWebミーティングしたりしています。もともと私たちのWeb会議は子どもの乱入や泣き声も多いのですが、コロナ禍でのこうした働き方は、私にとっては追い風でした。
我が家に大人は自分1人しかいない。なので、私のポリシーは、やりくりはせず、経営者としての自分が30%、母親としての自分が30%、私個人が30%と考えることです。すべてを完璧にはできないので、後の10%は、時々の振れ幅の部分だと思っています。
今日の自分は、母親として30%できたら合格、経営者として30%できたら合格、というように考えて毎日少しずつ歩んでいます。家が散らかっていても、洗濯機が回ってなくても、食器が洗えていなくても30%できればいいと思うようにしています。
子育てに関しては、自分がみられない時間も多くなりますが、そこは人にも頼り、「お願い、助けて」とも言っています。これで夫がいれば、子どものことは50%、60%になるかもしれませんが、常にワンオペでやっているので、仕方がない。
仕事と子育ての両立については、人間は神様ではないことを前提に、自然の摂理に従って、自分をある程度許せるかどうかが大切なのではないでしょうか。「自分は仕事をもっとやりたいのに」と思っていても、タスクが多すぎたり、疲れていたりすると、すべてをやれるはずがない。自分の状態を知った上でどのように対処するか。それが大切なのではないでしょうか。
みんなでカバーし合って働く
――坪内さんの会社は、お子さんがいる方が多いと聞きました。
坪内: 母親たちが多いです。第一号社員の女性は上の子が私の長男と同い年で、そのほかの社員ともみんなでやりくりしながらここまで来ました。働き方も、フルリモートでもいいし、オフィスに来たければ来てもいいし、柔軟に設定しています。
社員の中にも「自分はもっとやりたいのに」とか「こんなにミスをしてしまって」と言って嘆く人がいます。そんな時には「タスクを抱えすぎ。もっと人に仕事を振って。人が足りないならもっと雇うから」と言っています。そう言うと「いや、もっとやれます」という回答が返って来ますが、子どもも抱えて、日によって子どもの調子が良くない日もある。そんな日は母親だって、明らかに疲れているのでやれるはずがないんです。処理しきれない状態や疲れている自分を知って、どのように対処するか。それが大切です。
タスク管理シートにみんなのスケジュールを書いて、締め切りだけは守って、誰かがやっていないことは他の誰かが拾っています。赤ちゃんをおんぶしながらでも、みんなでカバーし合いながら働いている。誰かがやらなくても、絶対他の誰かがやってくれる。それがわが社の強さです。
――事業に取り組み始めた時には2歳だった上のお子さんは、もう中学校3年生ですね。
坪内: 上の息子は、今はだいぶ手が離れていますが、寂しい思いをさせたこともありました。それでも社員の子どもたちと年代が近く、家族ぐるみの付き合いをして、みんなに助けられて子育てをしてきました。
彼は今、自分の進みたい道を自分で決めて必死に取り組んでいます。将来の夢があって、来年から寮に入りたいそうです。自分で決めたのであればどんな道でもいい。彼が自分で考えて人生の目標を言えたことが嬉しくて。驚きましたが、良かったなと思いました。
私はシングルマザーなので稼がなければなりませんでした。毎日自分の30%分を母親として生きてきましたが、それでも合格点が取れたのかなと感じています。ずっとそばに一緒にいることが子どもにとっての幸せなのかというと、それだけで子どもが幸せになれるわけではなかったのではないかなと。自分の夢を迷いなく語る息子の成長を誇らしく思います。
●坪内知佳(つぼうち・ちか)さんのプロフィール
1986年、福井県生まれ。名古屋外国語大学を中退後、山口県萩市に移住。2011年に任意会社「萩大島船団丸」代表に就任。農林水産省から6次産業化の認定を受け、漁獲した魚を直接消費者に届ける自家出荷をスタート。2014年に「萩大島船団丸」を株式会社化しGHIBLIを立ち上げ、翌年から事業の全国展開を開始。各地で「船団丸」ブランドが拡大している。
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