ブリトニー・スピアーズの衝撃の告白「何でも父の承認が必要でした」~“自由”を奪われた13年【前編】
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法廷で明かした「意思に反する避妊具の装着」
6月23日、ロサンゼルスの裁判所の前に「#Free Britney(ブリトニーを自由に)」と掲げた看板やブリトニーの等身大パネルを持ったファンら100人余が集まり、その様子は大きく報じられました。
ロサンゼルス・タイムズ紙などによると、法廷に電話で出廷したブリトニーは父ジェイミーの後見人解任を訴え、「私の身に起きることは何でも父の承認が必要でした」「自分の意思に反してライブに出演させられるなど過酷な労働を強いられた」「強力な向精神薬を飲まされていること」などを明かしました。
証言の中で多くの人を驚かせたのが、彼女の意思に反して子宮内に避妊具を入れられていること。現在、39歳のブリトニーは、ボーイフレンドとの間に子供を望んでいるにもかかわらず、自分の判断では装置を取り外せないのです。
彼女は23分にわたり自身が置かれた後見制度の実情を切々と語り、「毎日泣いている」「ただ自分の人生を取り戻したい」と強く訴えたそうです。
歌が大好きな少女の成功後、待っていたのは・・・
しかし――。7月に入り、ロサンゼルスの裁判所が、ブリトニーの「父ジェイミーを後見人から外したい」という訴えを却下したことが明らかになりました。一方で、ジェイミーらと共にブリトニーの財産の管理をしてきた資産管理会社は、世の中の自身らに対する非難とブリトニーへの同情が高まっていることを受けて、後見人の退任を裁判所に申し出るなど日々、めまぐるしい動きがあります。
そもそも、なぜ、ブリトニーは成年後見人制度下での生活を強いられているのでしょうか?
ニューヨーク・タイムズ紙が制作したブリトニーのドキュメンタリー「Framing Britney Spears」(日本では公開未定 予告編)では、ルイジアナ州の小さな町で育った歌が大好きな少女がポップスターとして成功した後、メディアの女性蔑視的な報道の標的にされ、次第に追い詰められていった様子を追っています。
1998年、16歳でシングル「ベイビー・ワン・モア・タイム」で歌手デビューしたブリトニーは、瞬く間に米ビルボード1位を獲得。同名のデビューアルバムが全世界で3000万枚売れ、ティーンエージャーのCDセールスの記録を破るなどスターダムを華麗に駆け上がりました。今までにシングル・アルバムを含めて世界で1億万枚以上売り上げています。
ドキュメンタリーの中で、母親リンは娘の成功を素直に喜んだ一方、父ジェイミーは「娘の成功がどれくらいの金を生むか」に執着していたという音楽関係者の証言が……。父ジェイミーはアルコール依存や家庭内暴力の問題を抱えていたそうです。
ブリトニーがデビューしたのは、クリントン大統領(当時)とホワイトハウス実習生のモニカ・ルインスキーの“不適切な関係”が大きく報道されていた頃。人々がセックスをめぐる問題について、公言してもいいような雰囲気があったそうです。
ドキュメンタリーで、音楽関係者は、こう話していました。「ブリトニーの存在はある一定の人々を不安にさせた。メディアの中の彼女は親近感を抱かせる一方で、とてもセクシーな女性だったから」
メディアがつくったイメージ 「撃ち殺したい」とまで言われ
「将来は結婚して、子どもに囲まれた幸せな生活をしたい」と願っていたブリトニーは、次第にメディアが求める「性的に奔放な女性」という“像”にはめこまれていきます。テレビ番組で「処女かどうか」を聞かれたことも。プロのアーティストとしての能力にフォーカスした報道は当時、ほぼなかったよう。バックダンサーだった男性は、「現場での彼女は周りの意見を取り入れて、いいステージにしようとしていた。とてもクリエーティブで、彼女がボスだった」と振り返っているのですが……。
交際した男性の言動にも悩まされました。
人気ポップスターのジャスティン・ティンバーレイクは、ブリトニーとの破局の原因は、彼女の浮気――というような歌や、ミュージックビデオをつくったのです。すると、メディアの報道はエスカレート。「男性を誘惑し、もてあそぶ悪女」「世間の母親を怒らせる女性」といった彼女の像は強固になっていきます。(ドキュメンタリーの配信後、ティンバーレイクはSNSで謝罪文を発表)
ジャスティンとの破局後、テレビのトーク番組に出演したブリトニーに対して、女性司会者は「彼は傷ついている。彼に対して何をやったのか」と詰め寄りました。さらに当時のメリーランド州知事の妻ケンデル・アーリックが「(青少年に悪影響があるので)機会があったらブリトニーを撃ち殺したい」と発言したことを引用。困惑したブリトニーが、涙をこぼす場面がありました(ドキュメンタリーの配信後、アーリックは「射殺したい」と言ったことのみ謝罪)。
注目を浴び続けるブリトニー。2004年1月、ラスベガスで酔った勢いで幼なじみと挙式をしたものの、すぐに婚姻無効を申請。同年10月にはダンサーのケヴィン・フェダーラインと結婚します。
パパラッチの男性は「我々とブリトニーは当初は友好的な関係だった」と振り返ります。しかし交際や破局、結婚・離婚を経るうちに、パパラッチとの関係も変化。
そして2人の息子が生まれてからは「育児不適格者」「だらしない母親」としてのブリトニーの映像を求めるメディアが、彼女の一挙手一投足を注目するようになりました。車をふさぐように取り囲む大勢のパパラッチに、おびえた表情をみせるブリトニーという構図。メディア関係者は「彼女の行動すべてが、金もうけになった」と話していました。
06年に離婚。親権争いは泥沼化し、マスコミの報道はさらに過熱します。翌年に入るとブリトニーは車のあて逃げ容疑で警察沙汰になったり、美容室で突然丸刈りになったり、パパラッチの車を攻撃したり――。その様子を大衆紙などが、面白おかしく取り上げました。そして息子2人の親権は元夫にわたり、彼女は巨額の養育費を支払うことになります。
そして29歳の歌姫の“自由”は奪われた
そんな折に父ジェイミーが着々と進めていたのが、ブリトニーに対して成年後見制度を適用し、自身が後見人になる計画でした。
ロサンゼルス・タイムズによると、08年1月末、ブリトニーは自宅から強制的に精神医療施設に連れて行かれました。直後にジェイミーはロサンゼルスの裁判所に後見人制度の適用を申請。裁判所はジェイミーらを「一時的な」後見人と決定しました(後に無期限延長)。ブリトニー29歳の時。世間もメディアも疑問を抱きませんでした。先のドキュメンタリーは、「ブリトニーは子どもと定期的に面会するために、成年後見制度下の生活を受け入れざるを得なかったのだろう」と推察しているのですが……。