グラデセダイ

【グラデセダイ29 / Hiraku】あなたが私を「オカマ」と呼べない理由

「こうあるべき」という押しつけを軽やかにはねのけて、性別も選択肢も自由に選ぼうとしている「グラデ世代」。今回は、中村キース・ヘリング美術館プログラム&マーケティングディレクターのHirakuさんのコラムをお届けします。クリスマスを目前にして、Hirakuさんが恋人ができない理由を自ら深掘りしてくれました。

●グラデセダイ29

あなたはある特定の単語を使ってはいけないと言われたら、どう感じますか?
「オカマ」は主にゲイ男性やトランス女性に対する差別用語であり、使ってはいけないとされる言葉ですが、ゲイ男性の友だちがいる人々の中には、彼らがその言葉をカジュアルに使っている場面を目撃した人もいるのではないでしょうか。なぜ、当事者たちはその言葉を使ってよくて、その他の人たちは使えないのか、今回はお話しします。

侮辱語の裏にある深い歴史的ルーツ

アメリカでは人種マイノリティーやセクシュアルマイノリティーに対して「使ってはいけない」とされている単語がたくさんあります。例えば、黒人に対する「N」から始まる差別的な単語や、ゲイ男性に対し中傷として使われる「オカマ」と似た意味を持つ「F」から始まる単語など、私は、このコラムのような公の場所で使用をしないと決めているものがあります。これらの侮辱語の裏には、想像がつかないほどの深い歴史的なルーツがあり、人種や宗教による抑圧などが複雑に入り組んでいるのです。そのルーツは、マジョリティーがマイノリティーを政治的、社会的、文化的に劣っているものとし、支配下に置くためのツールとして作られたものなのです。
しかしそれらの侮辱語は、中傷のターゲットとなるマイノリティーの人々によって愛称語として使われることがあります。
侮辱語の中でも、アメリカでは特に、マスメディアやソーシャルメディアで「N」ワードの使用権利が議論されます。黒人コミュニティーでは人種に関係なく、「仲のいい友だち」のことや単に「男性」をさす言葉として使われます。

その言葉は黒人アーティストによるラップミュージックの中でも頻繁に登場します。80年代や90年代にアンダーグラウンドミュージックとして人気が出たヒップホップは、2000年代になると、音楽チャートでもトップ10には必ず入っているメインストリームミュージックとなります。2010、2020年にはトップ10のほとんどの座を占めるほどで、現在ではあらゆる世代、人種、国籍の人々が当たり前に聴いています。テレビやラジオでは放送禁止用語としてセンサーされてきたその言葉も、インターネットでの視聴があたり前になった今、センサーなしで聴くことがほとんど。そんな中、インスタグラムなどでついつい口ずさんでしまう白人のインフルエンサーやセレブリティーたちの投稿が炎上し、のちに謝罪の投稿をする場面をよく目にします。たまに、黒人ではない有色人種の人たちも批判の対象になっています。

「人種差別だ!」
「白人にその言葉を使う権利はない。」
これらのコメントに、だいたいの白人たちは納得しますが、中には反論する人たちもいます。

「使って欲しくないなら歌詞にするな。」
「自分たちは使っていいのになぜ私たちは使えないのか。」

侮辱語を使っていい人、使ってはいけない人

30代になり日本に住み始め、同じくこのコラムを書くかずえちゃんのYouTubeチャンネルのグループ企画に参加したとき、詳細は覚えていませんが、自分のことを「オカマ」と呼んだことがありました。そのときのコメントに「なんでゲイの人はオカマって言っていいんですか?」と書かれていました。そのコメントを読んだとき、自分と「N」ワードの関係が思い浮かびました。

ニューヨークのブロンクス区という地区で育った私の周りには、その「N」ワードが愛称として日常的に聞こえてきました。その地区は黒人やラテンアメリカ系の人たちが人口を占める場所でした。そのため、子どもの頃、その言葉は「友だち」や「男」という意味で、歴史的な背景も何も知らず、私も実際に使っていました。成長の過程で、その言葉が黒人に対する中傷として使われることを知ったとき、自分が黒人の友だちに対して使うことに疑問を持ちました。
ところが、黒人の友だちはその言葉で私を呼び、周りのラテン系のプエルトリコ人やドミニカ人の友だちも使っていたので、私も使い続けました。社会に出て、ニューヨーク出身以外の友人ができ始めたとき、ある白人の友人と黒人の友人と3人でジョークを言い合う場面がありました。そのとき、ふと白人の友人がその言葉を冗談まじりで使い、その瞬間空気が凍りつきました。白人の友人が咄嗟に黒人の友人に謝りながら「でもヒラクも使ってるからいいかと思った」と弁解すると、黒人の友人は「ヒラクはブロンクスで育ったからいいんだ」と反論。すると彼は渋々その場を去りました。「俺はブロンクスから来たから使う権利があるのか」と思った私は、そのあと彼に「ほかのアジア人が使ってたらどう?」と聞きました。

「うーん。普通のアジア人だったら嫌な気持ちになるけど、ヒラクは特別だね。」
「じゃあブロンクス出身の白人は?」

彼は「それはダメ」と笑いながら話題を変えました。その言葉の使用パスをもらった私は、今まで通り仲良くなった友だちには人種も関係なく使い続けました。それでも大人になるにつれ、20代後半、政治や社会に対する意識が高まってくると、その歴史的な迫害が付き纏う言葉を使うことに、なんとなく抵抗を感じ、新しく出会った人たちの前ではその言葉を自然と使わなくなりました。

白人主義アメリカの奴隷制度時代にその言葉は、黒人たちを家畜として扱うツールとして使われていました。その言葉が意味する白人社会の権力を、黒人コミュニティー間で愛称として使うことにより、権力を奪い返したのです。つまり、差別との苦闘を生き抜くために、苦しみを笑いに変え、自分たちだけのものにしたのです。

それでもまだ「オカマ」と呼びたい?

そんな時代背景を持つ言葉が差別用語として私に対して使われたことは一度もありませんでした。なぜなら私は黒人ではないから。いくら有色人種だからとはいえ、同じ育ち方だから、同じ喋り方だからといって、私のことを知っている人に使用パスはもらえても、私のことを知らないアフリカ系ディアスポラの人が、その言葉を使っている私を目にしたらどう思うでしょうか?赤の他人に、「ブロンクスで育ったんで」と言ったところで、言い訳になるでしょうか?
その言葉に苦しめられた経験がない時点で、使用パスをくれた黒人の友人たちに比べて、必然的に私は社会的に有利なのです。個人的に使用権利を認められたからといって、白人じゃないからといって、公の場でその特権を堂々と使う必要はありません。むしろ私には、その言葉自体、使う必要などないのです。だったら使わないと決めました。

「オカマ」という言葉で差別されてきたグループに属する私が、ゲイではない面識のない人がその言葉を発する場面に遭遇すると、怒りを覚えます。その人にゲイの友だちがいようが、家族にゲイがいようが、新宿二丁目に毎週末行ってようが、知ったことではありません。
私の仲の良いゲイではない友だちの中にはその言葉を使う人もいます。それは気になりません。私生活において、誰にその言葉の使用権利があって、誰にないのかはニュアンスであり、私がゲイとして決めます。長い間、その言葉を使って私たちを虐げてきた社会が存在する限り、ゲイコミュニティーがその言葉の使用権利を判定する立場であると信じているからです。
ですが、みなさんにも表現の自由という権利があります。もし、そんなにその言葉を使いたいのならば、使えばいいと思います。そのかわり、恐らくゲイの友だちはできないと思います。ツイッターで叩かれると思います。そんなつもりはなくても、例えばセクシュアリティーが理由で、その言葉とともに酷いいじめにあっている子どもたちの現状に拍車をかけているなどと、差別の悪化に加担していると批判を受けると思います。
私が使用権利を認める「ゲイ」というカテゴリーに当てはまらない人たちにも同じ事が言えます。結局のところ、使うか使わないかはあなたが決めることです。ですが、もしあなたが使っている場面に私がいたら、「使うな」という意志は、伝えさせてもらいます。
それでもまだ、私たちを「オカマ」と呼びたいですか?

ニューヨーク育ち。2014年まで米国人コスチュームデザイナー・スタイリスト、パトリシア・フィールドの元でクリエイティブ・ディレクターを務め、ナイトライフ・パーソナリティーやモデルとしても活動。現在では中村キース・ヘリング美術館でプログラム&マーケティングディレクターとして、自身が人種・性的マイノリティーとして米国で送った人生経験を生かし、LGBTQの可視化や権利獲得活動に積極的に取り組んでいる。
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