グラデセダイ

【グラデセダイ28 / でこ彦】グラデーションな感覚#1「思い出の作れない香り」

「こうあるべき」という押しつけを軽やかにはねのけて、性別も選択肢も自由に選ぼうとしている「グラデ世代」。今回は会社員のでこ彦さんのエッセイです。4月からは「五感+α」をテーマにお届けします。1回目は嗅覚。思い出はすべて匂いとつながっているというでこ彦さん。小学生の頃の友達の匂い、大好きな匂い……。3年前に恋した係長の匂いは……?

●グラデセダイ28

僕の名前は本当は「圭」だった。しかし僕が生まれる数週間前、同じ町内に生まれた男の子が圭と名付けられたため、親は急いで別の名前(でこ彦)を考えたらしい。
家も誕生日も近いので小学校に入学するとすぐに圭くんと仲良くなったが、家に遊びに行くような間柄になったのは五年生のことだった。
日曜日に家でひとり「いいとも増刊号」を見ていると外にウロウロする人影を感じた。窓を開けて確認すると圭くんが立っており、「ミュウツーを捕まえたから見にこないか」と誘われた。家ではゲームを禁止されていたためポケモンがどういうゲームかよく知らなかったが、興味があったのでついていった。それに、圭くんが僕を誘おうと家の前で逡巡していたのかと思うと愛おしく思えた。
1ブロックほど離れた場所にある圭くんの家の玄関を開けた瞬間、鼻の中に馴染みのある匂いが吹き込んできた。芳香剤か洗剤か香水か何なのかは分からない。石鹸のような煙草のようなスイカのようなメロンのような清涼感があるがそれも何の匂いか分からない。学校でたまに嗅ぐ匂いだった。図書室の匂い?校庭の隅の匂い?頭の中で検索してみるが何のことはない。そのものずばり圭くんの匂いである。圭くんの持ってくる給食着や、罰ゲームででこぴんをされるときに指先から漂うのを嗅いだことがある。
不思議なことに、この瞬間まで圭くんの匂いというものを認識したことがなかった。ウサギの絵だと思っていたものがアヒルの絵にしか見えなくなるように、頭は圭くんの匂いとしか認識しなくなった。
しかし何の匂いだろうか。体臭というほど温度のある匂いではない。枯れた木の皮のような、あるいは蛍光灯のように人工的というのか、説明が難しいが僕の頭は「ミュウツーの匂い」として認識している。

メロンの匂いを嗅ぐとミュウツーを思い浮かべるように、匂いは常に思い出と繋がっている。一度その匂いを嗅げば一瞬で頭がその「過去」に浸ってしまう。たとえば名古屋の上前津駅。地下鉄の電車がこの駅に止まると僕の意識はベルリンのアレクサンダープラッツに飛ぶ。上前津駅の中に入っているパン屋のシナモンと小麦とバターの香りがベルリンの広場で嗅いだものと全く同じなのだ。他のパン屋ではなったことがない。上前津駅のそのお店だけが引き起こす。停車している数十秒の間だけ旅行中の高揚感と不安感が再現され、自分がどこにいるのか本気で分からなくなる。

一番好きな匂いは何かと考えると、沈丁花の匂いだろうか。年度変わりの不安定な時期に散歩をしているとどこからともなく漂うピンク色の花の匂いを嗅ぐと思わず立ち止まって深く息を吸い込んでしまう。
好きが募るあまり、常に体から放っていたいと思い立って数年前に香水を探すことにした。百貨店の香水売り場の人に尋ねるが沈丁花の香りという商品はないという。「どういった香りですか」と問われたので「春の花で、百合のような甘い香りの中にも柑橘系の酸味があり…」と説明するのだがどうも違う。僕にとっての沈丁花の匂いは「待ち合わせ場所でソワソワしているときに相手を見つけて走り出したとき、脇汗が風に当たってひんやりする匂い」なのだ。
ちなみに、言葉を尽くしても伝わらなかったが、英語名のダフネ・フラワーで調べてもらったらすぐに見つかった。

僕にとっての沈丁花はそういう匂いなので、係長と会うときは季節を問わず香水をつけるようにしている。ソワソワを一緒に感じてほしかったのだが、あるとき係長に「なんかお前、不良の匂いがする」と言われた。係長にとって沈丁花はどういう思い出があるのだろうか。自分の腕を嗅いでみるが、不良はそこにおらず、春の落ち着かなさしか感じない。

三年前に職場の係長に恋をしてから、感覚が冴えわたっている。僕の目は係長の眉の毛並みを見逃さない。耳は廊下の向こうから聞こえる笑い声を聞き逃さない。皮膚は後ろから近付く気配を逃さない。舌は味わされる苦味を忘れない。
しかし鼻だけは何も捕まえることができていない。係長からは何の匂いもしないのだ。
係長もまた匂いに敏感である。一緒にごはんを食べにいっても餃子やアヒージョなどニンニク料理を避け、柔軟剤も香水も整髪剤も使わない。「くさい」だけでなく良い匂いであろうがとにかく匂わないようにしている。それが浮気がバレないためだとしたらどうしようかと心配で息苦しくなったこともあるが、どうやら単純に無臭であることが目的らしい。しかし思い出の共有を拒絶されているようでさびしい。
そんな係長にも好きな匂いというものがあるのか聞きにいこうと思ったら、「ソーシャルディスタンス!」と言って2メートル以内に近付くことを許されなかった。
係長の体調を考えれば距離を置くことは必要だがやはり悲しい。あんぱんを袋の上から潰すように胸がくしゃっと痛む。好きな人と会話もできないつらさが今はアルコール消毒液の匂いを放っている。

1987年生まれ。会社員。好きな食べ物はいちじくと麻婆豆腐。
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