グラデセダイ

【グラデセダイ04 / でこ彦】グラデーションな関係#1「名前のない関係」

「こうあるべき」という押しつけを軽やかにはねのけて、性別も選択肢も自由に選ぼうとしている「グラデ世代」。第4土曜日は、サラリーマンのでこ彦さん。繊細な描写とちょっぴり笑える日常を綴った日記やエッセイがSNS上で話題を呼んでいます。出会ってきた様々な人との「グラデーションな関係」を、でこ彦さんらしい言葉でお届けします。

●グラデセダイ04

小学校にあがる前、姉と近所の公園で遊んでいると雨が降ってきた。噴水の横に立っているような、ほんのりと顔で感じられる程度のまばらで柔らかな雨だった。
「雨だね、どうする?」と聞くと、3歳上の姉は勝ち誇ったような笑みを浮かべ「これは雨じゃなくて小雨って言うんよ」と教えてくれた。強弱で雨の呼び名が変わることを初めて知った。
「コサメだけえ帰らんくてもいい」と覚えたての言葉を繰り返してそのまま砂場で遊んでいると、前触れもなくいきなり豪雨へ変わった。激しい雨脚がつむじに刺さって痛い。「これはなんて言うん?」と姉に尋ねると「うるさい!」と怒鳴られた。
姉もまた急に機嫌が変わる人だった。ビチョビチョの靴で走りにくそうに家に駆けていったので、置いていかれまいと慌ててあとを追いかけた。家にたどり着くと母親が「あんたら濡れネズミだね」とタオルを持ってきた。当時の僕はそれを不潔なドブネズミと蔑まれたのだと勘違いをし、悲しい気持ちになった。
世の中には知らない言葉が多すぎる。

この天候はなんと呼ぶのだろう、と僕は空を見上げた。
昨年の12月末、仙台市は晴れているのに雪が舞っていた。狐の嫁入りは経験したことがあったが、雪のそれは初めてだった。太陽は眩しいばかりで何の足しにもならず、スマートフォンを操作するため手袋を外すと寒さで指が動かなくなった。
係長からメッセージが来ているのに開けない。もたもたしている隙を狙って鋭い風が雪の破片を耳の穴に撃ち込んでくる。東北地方の冬に早くも怖気づいてしまった。

毎年末、係長は奥さんの実家がある仙台に帰省している。その際に学生時代の後輩と遊ぶのが恒例になっているというので、僕はそこに混ぜてもらうため、新幹線で約4時間かけて北上してきたのだった。

係長から待ち合わせの指示があった居酒屋に入ると、カウンター席で係長と後輩の永瀬くんはすでに並んで飲んでいた。高ぶる気持ちを抑えて「来ちゃいました」と声をかけると、係長は「誰ですか、あなた」と不審そうな顔を見せた。視線を合わせてくれないものの、横の席に置いていたコートをどかして、隣に僕が座るスペースを作ってくれた。

永瀬くんが「先輩の部下じゃないんすか」と笑うと係長は「部下じゃない」と背中を向けて僕を話の輪に入れさせない。確かに直属の部下ではない。人事異動で所属部署が離れて2年が経つ。「ひどいっすよ、先輩〜」と背中をさすると、うっとうしそうに手を払いのけられてしまった。
後輩でもないというのか。合流して4分も経たないうちに早くも泣きそうになっていると、係長は「お前はまたすぐそういう顔をする」と満足げに笑って、「うそうそ。同じ会社の人」と永瀬くんに説明していた。

ようやく会話ができると涙を拭ったのも束の間、ふたりは「じゃあ行くか」と席を立った。どこへ行くのか尋ねると、「相席居酒屋」だという。思わず「え!」と声が漏れた。僕は事前に3人でゆっくり飲みたい、仙台の街を案内してほしいと伝えていたのだ。牛タンとずんだシェイクに行きましょうと誘っていたのに。
係長は「嫌なら来なくていいよ」と言い放った。
「今日はお前と遊ぶ日じゃないから。俺らが遊ぶところにお前がついてきてるだけだから」
まるでガキ大将だ。しかしもっともでもある。係長が楽しませたいのは女の人なのだ。あるいは一緒に下ネタで盛り上がれる男友だち。僕の選択肢はひとつしかない。

「嫌なわけないじゃないですか」
店を出る係長たちの背中を追いかけながら、僕はかつて係長に〈俺ら〉という一人称複数形を用いられたことがあっただろうか、と変なところが気になってしまった。

地図アプリで表示された一番近い相席居酒屋へ向かっていると、道中にスーパー銭湯があった。
「あ! ここサウナ、友だちからおすすめされたんです」
興奮して建物に向かって駆け寄ると係長は後ろから「転ぶぞ」と声をかけてくれた。無視されると思っていたのに、子どもに対する注意喚起のような、思いがけず柔らかな声に背中がじんわりと温まる。

「今度一緒にサウナ行きたいですね」
「嫌だ。お前とは絶対行かない。永瀬となら行く」
「なんで!」

複数の相席居酒屋をはしごし、深夜2時を回った頃に解散となった。帰る方向が逆になる永瀬くんと別れ、夜更けの雪でしんと静かになった道を係長と並んで歩いた。ようやく2人で話ができる。

「お前なんでここにいるの」
係長は僕が仙台にいることに今さら気付いたみたいだった。
「係長に会うためですよ」
「本当にお前って気持ち悪いよな」
冷たい。
仙台の冬は、雪よりも何よりも風が殴りかかってくるように冷たい。底冷えに震えていると係長は「お前が女なら温めちゃるのに」と呟いた。
僕はそれを聞いて喜ぶべきなのか悲しむべきなのか判断がつかなかった。ひとつ分かるのは、永瀬くんにはそんなこと言わないだろうということだった。

係長は相席をした女性たちと何の発展もなかったことをしきりに残念がっていた。僕ならいつでもなんでも無料でできるのに、と残念に思うが女でない僕は性的関係をのぞめない。かといってサウナに連れ立つ男友だちにもなれない。
係長にとって僕とは何なのだろう。何になら、なれるのだろう。少し先を歩く係長の背中を見つめながら憂えていると数時間前の言葉を思い出した。

「同じ会社の人」
係長は永瀬くんに僕をそう紹介していた。
恋人でも友だちでもなければ、部下でも後輩でもなく、弟や息子やペットとも違う。そのどれでもありそうで、どれでもない。その答えがまさか「同じ会社の人」だとは。

一緒にごはんを食べにいけば「こんなに食えるか?」と心配そうに覗きこみ、性風俗店で起こしたいざこざを不安そうに相談してきたこともあれば、「お前が仙台来ること奥さんには内緒にしてる」といたずらっぽく笑いかけてくる係長にとって僕は「同じ会社の何十人といるうちのひとり」に過ぎなかった。
そんなはずあるまい、と思うのは僕の思い上がりだろうか。かといって反論できる言葉を僕は持たない。

例えば〈小雨〉のようにさっぱりと分かりやすい名前が欲しい。小雨、時雨、鬼洗い。粉雪、べた雪、牡丹雪。狸の嫁入り。晴れているのに降る雪をそう呼ぶらしい。世の中には知らない名前が多すぎる。係長と僕のために用意された言葉も世界のどこかには埋もれているのだろうか。

「このまままっすぐ行けばお前のホテルだよ」
「あ、ずんだシェイク飲む約束忘れてました」
「残念。俺は永瀬と飲んだ。明日駅で飲めよ」
はい、と応じたが、ずんだシェイクそのものはどうでもよかった。係長と一緒がいいのだ。ビールだろうと白湯だろうとそこに大きな違いはない。小雨でも豪雨でも係長の隣であればそれはフラワーシャワーに感じられる。
ならば今夜の相席居酒屋で散々味わった苦汁をずんだシェイクということにしてしまえ。名前は自分でつけても良いのだ。
「あとは道分かるよな」と雪に埋もれた横断歩道を渡っていく係長にバイバイと手を振ると、振り返ってヒラヒラ振り返してくれた。

「好きだ、係長」

呟いたひとりごとは白い湯気になって仙台の夜闇に溶けていった。月も星も見えない夜空からため息みたいな雪がこぼれ落ちてくる。
〈狸の嫁入り〉みたいな安直な名前ならいらないな、と思った。

(了)

タイトルイラスト:オザキエミ

1987年生まれ。会社員。好きな食べ物はいちじくと麻婆豆腐。
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