グラデセダイ

【グラデセダイ67 / 小原ブラス】「かもしれないセダイ」

「こうあるべき」という押しつけを軽やかにはねのけて、性別も選択肢も自由に選ぼうとしている「グラデ世代」。タレントでコラムニストの顔も持つ小原ブラスさん。コロナ感染拡大から1年、ブラスさんやブラスさんの友人にも変化が起きているのだとか。 本コラム「グラデセダイ」、最終回に思うこととは?

●グラデセダイ67

新型コロナウイルス蔓延に伴う、コロナ自粛時代も気がつけば1年以上が経った。この新しい時代に良い意味でも悪い意味でも、多くの人が慣れてきたようだ。今までは人と会って話すこと、他人と触れ合うことが素晴らしいという価値観を持っていた僕にとっては、誰かと会ったり少し外出するだけでも罪悪感を抱えるこの時代はやっぱり苦しいし、慣れない。ただ、こんな苦しい時代だからこそ、新しい気付きもあったように思う。

 

新宿2丁目で働いていた友人の一人称

思い出すと、コロナ自粛時代になる前は毎週のように、日本屈指のゲイタウン新宿2丁目に遊びに行ってはいろんな出会いがあった。自分が共感できる人や、惹かれる人に新しく出会える機会が奪われた今は、これまでに出会った人と連絡をとりながら、それらの人々の新しい一面を見つけることがひとつの喜びになっている。

先日、新宿2丁目で働いていたゲイの友人がどうしているのか気になり、久々に連絡をとってみた。今は2丁目の多くの店が閉まっていて、何もせず貯金を切り崩して生活をしているという。あれほどお店ではワーキャーと騒いでいたその友人も、なんだかすっかり大人びた様子。こんなに静かでおとなしい人だったんだという新しい一面だ。

「俺、最近は、簿記の勉強してるんだよね」この彼のひと言に、また驚いた。もちろん、勉強なんて絶対しなそうな彼がこのコロナ禍を利用して勉強していることにも驚きだが、それよりも驚いたのが「俺」という一人称。これまではいつも「あたしは〜あたしは〜」と、いわゆるオネエ言葉で話していたから、その不自然さに思わず「ちょっとーどうしたの?大丈夫?」と余計なツッコミまで入れてしまった。

そもそも新宿2丁目で店子をやっている多くのゲイは、もともとはオネエ言葉を使う訳ではない。もちろん最初からオネエ言葉で話してる人もいるかもしれないが、多くは店子を始めてから習得をするのだ。何となくうつってしまうパターンもあれば、わざわざ練習をしたという話も聞いたことがある。いずれにしても、2丁目で働くゲイたるもの!みたいな期待に応えてそうなっていくのだろう。彼もこのコロナ禍で本来の自分の一人称を取り戻したのだろう。

多様性の時代の多様な性の象徴である彼も「ゲイたるもの!」に縛られていたのだ。

 

グラデセダイは最先端じゃない!?

実はこの「グラデセダイ」をテーマにしたコラムを書くのも今回が最後なのだが、ここへきて「グラデセダイ」が果たして最先端なのか疑問に感じ始めた。今まで女性問題や、LGBTQ問題などさまざまな内容をテーマに、ドヤ顔でコラムを書いてきた僕だが、所詮は友人の一人称の「俺」に衝撃を受けてしまう程度でしかなかったからだ。

そもそもグラデセダイとは「こうあるべき」という押しつけを軽やかにはねのけて、性別も選択肢も自由に選ぼうとしている世代のことらしい。いろんな性や色があっていいんじゃないか、自分の色が他の人と違う色でも胸を張っていいのではないか、そんな考えもあって名付けられたのだろう。LGBTQを表す旗が虹色であるように、いろんな色を受け入れましょうよという考え方。

もちろんいろんな色が受け入れられるのは素晴らしいことだ。でもなんだか、「自分はこんな色なんだ!」という選択を無理にしているようにも感じる。そうしないと自我を保てていないのか。

例えば、「自分はゲイだ!」とか「自分はバイだ!」とか「自分は結婚しない選択をしているんだ」とか、「私は子どもを産まない選択をしているんだ」といった自分の色やカテゴリを無理に決めつけて、しかも「僕はゲイだからこうするんだ!」というように、自分の進むべき道をそのカテゴリから指し示そうとしている人が多いと感じる。

 

「同じゲイとして」というカテゴリ

テレビに出て何か発言をすると「同じゲイとして、こんな発言をしてくれてうれしいです。これからも応援します」といったコメントをもらうことも多いが、別に僕は誰かのために発言をしているつもりはない。けれど、自分がゲイであり外国人であるというカテゴリに分類された人間としての発言は、それだけで何かしらの意味を持ってしまう。じゃあ、僕がゲイじゃなかったら同じ発言でも応援してくれないのかとか、違った発言であればゲイとしてしてはいけない発言だったのかと考えさせられる。

僕はあなたと同じゲイかもしれないけど、僕とあなたは全然違う人だし、別に仲間ではない。グラデーション的には似たような色なのかもしれないけどね。

そもそも、ゲイでもいつか女性を好きになる可能性もあるし、結婚をしない選択をしていると思っていても、いつか結婚することになるかもしれない。人生を生き抜いて、死ぬ時にならなきゃ自分が何だったのか、誰の仲間だったのかなんてことは分からない。それに今、生きているこの時に、それを分かる必要ってあるのだろうか。

無理に自分が他の人とどう違うのかをアピールする必要もないし、それを自分に言い聞かせて自分を縛る必要もない。自分が何なのかなんて分からなくいい。一人称が「あたし」でも「俺」でも、毎日変わってもなんでもいい。

これからは、自分がどんな色であるのかとか、グラデーションを選択しようとすることをやめて、ビニールのような色のついてない旗を掲げ「自分は○○かもしれない」ぐらいの主張をする「かもしれないセダイ」になろうと今は思っている(かもしれない)。その方が生きやすい気がする。とうとうここまでこじらせてしまった。

◆「グラデセダイ」小原ブラスさんのコラムは、今回で最終回となります。今までご愛読いただき、ありがとうございました。

1992年生まれ、ロシアのハバロフスク出身、兵庫県姫路育ち(5歳から)。見た目はロシア人、中身は関西人のロシア系関西人タレント・コラムニストとして活動中。TOKYO MX「5時に夢中」(水曜レギュラー)、フジテレビ「アウトデラックス」(アウト軍団)、フジテレビ「とくダネ」(不定期出演)など、バラエティーから情報番組まで幅広く出演している。
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