グラデセダイ

【グラデセダイ65 / Hiraku】なまった英語が持つパワー

「こうあるべき」という押しつけを軽やかにはねのけて、性別も選択肢も自由に選ぼうとしている「グラデ世代」。今回は、中村キース・ヘリング美術館プログラム&マーケティングディレクターのHirakuさんのコラムをお届けします。

●グラデセダイ65

2019年10月に始まった私のコラムも残念ながら今回で最後になりました。

今まで社会的な題材で重めな話をしてきた私ですが、最後の今回は、いつか書いてみたいなと思っていた、よくある軽快な英会話コラムを私の解釈で書いてみようと思います。 

 

日本人が気にする、英語の「なまり」

私が帰国子女であることを明かすたび、必ず聞かれるのが「じゃあ英語ペラペラなの?」という質問。日本人は私の「英語力」にとても興味を持ちます。「英語」という言語に対する日本人の関心は他の国では例を見ないほどで、電車に乗っている時も、タクシーの車内でもテレビのCMでも、英会話の教材やレッスンの広告で溢れています。

日本のポッドキャストのランキング上位も英会話であったり、英語を研究したり英語について話したりするYouTuberもたくさんいます。出会い系アプリのプロフィールにも趣味が英語だと表記していたり、デート中であっても英語に対しての興味がその場を占領し、例えば「ビッチってよく映画で聞くんだけど、あれってやっぱりヤリマンって言ってるの?」などとトピックも内容も単語の意味もツッコミどころが満載な人にもよく出くわします。あまりの「英語好き」がそうさせるのか、日本には英語がしゃべれる様になる前に「なまり」を気にする人たちが多いのです。

 

アクセントは個性やその土地の歴史的背景も表す

「白人の英語が一番きれいな英語なの?」
「宇多田ヒカルの英語ってやっぱりネイティブなの?」
「フィリピン人の先生に英語習ったらフィリピンなまりになるの?」 

みなさんは「アクセント(なまり)」がどんなに素晴らしいものなのかご存知ないようですね?
「アクセント」は人それぞれの個性や生い立ち、さらには地理的・歴史的背景まで表現する力を持っているのです。 

アクセントは自分自身ではわからないもので、私は初めてニューヨークを出てアメリカの他の州を訪れたときに「ニューヨークのアクセントがある」と指摘され、自分の英語が独特であることを知りました。一口に「ニューヨークの英語」と言っても、様々に枝分かれしていて、なかでも私が話すのは、言語学的な括りでNYLE(ニューヨーク・ラティーノ・イングリッシュ)と呼ばれているそうです。主にニューヨーク市内の貧困地区に住むLatinx(ラティネクス。ラテン系の人たちのことをジェンダーニュートラルに指す呼び方)によって話されている英語のダイアレクト(方言)です。

 

私が話す「NYLE」の歴史的背景とは

以前のコラムでお話したように、子ども時代を過ごした地区は、いわば貧困地区であり、NYLEの宝庫。そのため、私がそのダイアレクトを話すのは、そこで生活をしている者ならではなのです。NYLEにはとても複雑な歴史的背景があります。第一次世界大戦後にニューヨークへ移り住んだプエルトリコ系の移民たちの母国語はスペイン語でした。スペイン語が第1言語だった彼らが学んだ英語は、当時ニューヨークでヨーロッパ系移民によって形成されていた英語(イタリア語、オランダ語、イディッシュ語の影響を受けたもの)から西アフリカからの奴隷の祖先である黒人たちによって話されるアメリカ南部の英語がベースとなったAAVE(アフリカンアメリカン・バナキュラー・イングリッシュ)の影響が現れたものまで、既にアメリカ本土でも特徴的な英語でした。また彼らのスペイン語もアメリカ大陸と同時に植民地時代に支配されたカリブ海諸島のプエルトリコやドミニカ共和国、キューバで話されるもので、西アフリカの言語、先住民タイノ族の言語、カナリア諸島のスペイン語ダイレクトが影響を与えたもの。そんなスペイン語はさらに彼らの英語を味つけました。

日本語を話す親を持つ私の口から放たれる、そんな歴史がたくさん詰まった英語は、もちろん日本語の要素も持っていました。しかし様々な移民や黒人の子どもたちの間では、その要素も際立つこともなく、違和感も抱かず生活していました。

そんな「里」を出て大人になるにつれ、徐々に他の地域から移住してきた白人の友だちができました。彼らは、私の話す多様なアメリカ史が形成した英語を
「ghetto(スラムっぽい)」
「uneducated(教養がない)」
「inappropriate(行儀が悪い)」
と笑ったり、正そうとしたりしました。自分の話す英語に魅力があるなどと想像もしていなかった私は、世間のプレッシャーに飲み込まれ、白人と話すときや、かしこまった場面では、いわゆるGenAm(ジェネラル・アメリカン・イングリッシュ/標準語)を話す努力をしていました。それでも地元の友だちや近所の人たちと話すときは元の英語を話すなど、時と場合によってさまざまな英語を行ったり来たりしました。これをcode-switching(言語の切り替え)と言います。

 ここで簡単なNYLE・GenAm間のcode-switchingの例を紹介します:

[発音]

■coffee(コーヒー)

クウォフィー(NYLE)=カァフィー(GenAm)

 

■quarter(25セント)

クウォダ(NYLE)=クウァーrターr(GenAm)

 

[文法]

■彼はとんでもないことを言う。

He be talking crazy. (NYLE)

He talks about crazy things. (GenAm)

 

■誰もここにいない。

Ain’t nobody here. (NYLE)

There is nobody here. (GenAm)

 

[表現]

■マジだよ。

Deadass. (NYLE)

I’m serious. (GenAm)

 

■ちょっとお腹すいたけどコンビニ遠いし買い出し行きたくないんだよね。なんであんな遠いんだろう?腹立つ。マジで。

I’m type hungry pero I don’t wanna go do compra cause the bodega is mad far. Why it gotta be so far? I’m tight. Like Odee. (NYLE)

I’m a bit hungry but I don’t want to go buy groceries because the corner store is so far away. Why is it so far? I’m frustrated. Like really. (GenAm)

 

GenAmを話そうとするとやはり自分の言葉ではないせいか、とてもぎこちなく、なんだか白人の役を演じている気分になりました。言葉というものは真似して覚えるものであるとよく耳にしますが、大人になって別の人間のふりや真似をして生活するのは窮屈で、なんとなく自分のメンタルヘルスを削っているような感覚になります。

それでもcode-switchingを日々繰り返した私の英語からはいつの間にか、NYLEのあのビートに乗っているかのような体さえも動かすリズムや、自信と確信に満ち溢れたイントネーション、ストリートさを追求したような響きのスラングや言い回しが色褪せていきました。ブラックやブラウンの友だちからは「白人ぶっている」と言われ、それでも白人たちからは「ニューヨーク癖が強い」と言われました。

 

人種マイノリティーの白人化の強要

2010年代半ばになると、ミレニアル世代による「woke culture(社会的意識を高める動き)」の世間への浸透が始まり、人種や民族を中心とする会話が至るところでなされていました。この頃code-switchingについてのポッドキャストやユーチューブも盛んにアップされ、これをきっかけに、さまざまなアクセントや文化を行き来する人が自分だけではないことを知りました。

世間がマイノリティーに対して設定する基準は、ダイアレクトやアクセントだけではなく、名前や髪型、髪質、さらには思想などまで、白人社会が適切だと思うもの。つまり私たちにGenAmを押し付ける社会的圧力は、人種マイノリティーの白人化の強要であったことに私たちは気づいたのです。近年、アメリカではこのことが大きな社会問題となっています。

マイノリティーや外国人の友だちのなまりや地方の方言をからかうことは、一見純粋な冗談だと思うのではないでしょうか。しかし、そういった冗談やからかいの一般化は、つもりにつもってマイノリティーの存在価値の希薄化を加速させます。アクセントでいうと、アメリカの移民の深い歴史背景を否定し、黒人や移民の先祖の苦しみを軽くあしらっているようなものなのです。

市場の中心になり始めたアメリカのミレニアル世代の間では、近年そういったマイノリティーに対する無配慮な発言などが許されない、そして個人個人が自分の言動に対する責任を持つことを必要とされるカルチャーにすでに変わっています。また同時に、自分らしさや本質をあらわにすることが求められ、好まれ、売れています。これをauthenticity(本物であること、真正度)と呼びます。インフルエンサーや芸能人は特にauthenticでないと叩かれたり、批判されます。逆にauthenticである人が人気になったり売れたりします。対人関係でも最近ではauthenticでない人は嫌われたり相手にされず、例えば、出会い系アプリでもよくauthenticityが求められています。

英語を話すということはこういった意識を持った人間たちとの会話に加わる可能性が増えるということでもあり、言語を話すということは、単に言葉を発するだけではなく、その言語が話される文化へのある程度の参加が要されるということでもあるのです。

 

英語はただのツール。大切なこととは?

「こういう英語を話したい」という憧れは持ってはいけないものではないと思います。ただ、特定の英語を批判することには、それなりの重みがあることを覚えておいてください。特に英語を話せず学びたい人に、例えばフィリピンなまりの英語を否定する資格はありません。

そもそも外国語を話す目的は、その言語を話す相手とのコミュニケーションであり、ネイティブであろうがなかろうが、なまっていようがいまいが、とにかく自分の意思を伝えることさえできればなんの問題もないのです。英語はただのツールであって、大切なのは話者の中身です。

2012年くらいから私は自分のユニークな英語のもつ力を取り戻しました。私の英語の特徴は、私にしかないものであり、私の生きてきた人生を物語り、さらには生きた土地やその地に住む人々が持つ歴史を受け継ぐ力があるのです。私の個性はそのパワフルな英語に乗って、この世界に存在を際立たせています。

ひとつひとつの「なまり」には、ひとつひとつのストーリーがあります。英語を学ぶのであれば、あなたのストーリーを個性として受け入れ、あなたらしい英語を話して欲しいと、私は強く思っています。

どんな見た目でどんななまりでどんな母国語を話そうが、最終的に人生で一番大切なのはあなたの個性であり、その個性を受け入れ、輝かせた者が幸せになれる世界なのだから、言語はその個性を表現するツールとして使ってみてはいかがでしょうか?自分のユニークさこそが、あなたの世界を切り開いていくのですから。

結局いつも通り重い内容になってしまいましたね。今までそんな私の嘆きに耳を傾けてくれたミレニアル世代を代表する女性たちに感謝の気持ちを。ありがとうございました。

 

◆「グラデセダイ」Hirakuさんのコラムは、今回で最終回となります。今までご愛読いただき、ありがとうございました。

ニューヨーク育ち。2014年まで米国人コスチュームデザイナー・スタイリスト、パトリシア・フィールドの元でクリエイティブ・ディレクターを務め、ナイトライフ・パーソナリティーやモデルとしても活動。現在では中村キース・ヘリング美術館でプログラム&マーケティングディレクターとして、自身が人種・性的マイノリティーとして米国で送った人生経験を生かし、LGBTQの可視化や権利獲得活動に積極的に取り組んでいる。
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