【グラデセダイ64 / でこ彦】グラデーションな季節#04「山村くんと春」
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ちんこ時計というものがある。
山村くんが教えてくれた。
「5時間目の後半、俺、絶対勃起するんだよね。それで授業がそろそろ終わるなって気付く」
それが腹時計ならぬ「ちんこ時計」だと言う。
「じゃあ今も勃起してるの?」
「うん」と恥じらうことなく堂々と答えた山村くんが格好良かった。
つん、と突くと人差し指が肉の硬さにぶつかった。お昼12時を示す長針のようだった。
しかし、これはやり過ぎだったのか、なんとなく気まずくなり、お互いしゅんとしたまま6時間目が始まる教室に戻った。
山村くんは中学時代の同級生で、3年間で同じクラスになることはなかったが不思議と仲が良く、休み時間や放課後のたびに僕は彼を訪ねた。サッカー部の朝練から戻ってくる山村くんに「おはよう」と声をかけ、放課後の練習へ向かう山村くんにバイバイと手を振ってから帰るのが僕の日課だった。
毎晩付ける日記には「手を振り返してくれた」「投げキッスをしてくれた!」「無視されちゃった(涙)」など山村くんの反応を書き残した。その日が良い日か悪い日かは山村くん次第だった。
山村くんは上級生・下級生問わず女子からの人気が強かった。吹奏楽部の部長と家庭科室でセックスをしているという噂があった。上半身は着たままだったという詳細な目撃談が生々しかった。かと思えば、体操部の新入生から「お試しで私と付き合ってみませんか」と漫画のような告白をされたとも聞いた。その申し出は断ったが、フォローとして卒業後にラブホテルに行く約束を結んだらしい。
噂の真偽を本人に尋ねると、「でこ彦、お前も俺とやりたいんか!」とトイレの個室に連れ込まれ、後ろから覆いかぶさるように抱きつかれた。うまくはぐらかされた。僕の困惑する悲鳴と山村くんの過剰な喘ぎ声を聞いて、個室の外にいる男子が何人かハハっと笑った。
性的な話題に事欠かない山村くんだったが、髪や瞳の色素が薄いせいか、彼の話す単語はどれもさらりと無機質に聞こえ、耳のはじに甘い余韻だけが残った。おまけに長身痩躯で、サッカー部のエース、周囲がドコモの携帯電話ばかりの中ひとりだけauのシュッとした着せ替えケータイを使っていて、モテるのも納得だった。
同級生の多くが同じ公立高校へ進む中、山村くんはこの地域では珍しく、隣の市の私立高校へシュッと進学していった。
あっちの高校でもモテているのだろうか、と思い出すことすらなくなった高校3年の4月、山村くんに再会した。
春といえども夕方になるとすでに学ランでは暑苦しかった。陽気に加えて黄砂と花粉とで朦朧となり、ほとんど眠りながら下校していると、
「でこ彦!」
と、声をかけられた。周りを見渡すが、コンビニがあるだけで、広い駐車場にポツポツと停まる車に知り合いはいない。無視して歩き出すとまた、「でこ彦!」である。
声のした方向を注視すると、駐車場の隅に置かれた証明写真機のカーテンの隙間から、山村くんがこっちを手招きしていた。
「どこから呼ばれてるのか分からなくて怖かった。久しぶり!」
「でこ彦の学ラン貸してくれん?」
喜ぶ僕のテンションをうっとしがるように遮った。求められるまま脱いで渡すと、山村くんは薄い水色のシャツの上から羽織った。下はジーパンだったので私服なのかもしれない。
「制服は?」と尋ねる暇も与えてもらえず、チャっとカーテンを閉められた。
駐車場のタイヤ止めに腰掛けて、コンビニ前を通り過ぎる中高生を何人か見やって撮影時間を待った。遠くで聞こえるトンビの鳴き声が眠気に拍車をかける。トイレの個室にふたりで入って山村くんにハグされたのは僕の記憶なのか、今見ている夢なのか分からなくなってきた。
「終わった。サンキュウ。まじ助かった」
約2年ぶりだと感じさせないほどフランクだった。高校生活こそが夢で、僕たちはまだ中学生なのかもしれない。学ランには山村くんの体温が残っていた。
「元気だった?」
「俺、高校辞めた」
え? と聞き返すより早く、「ありがとな、バイバイ」と手を振り、コンビニに入っていった。店内で雑誌を立ち読み中だった男子の固まりに合流していった。ポスターだらけの窓ガラス越しに手を振り返したが、もう視線は合わなかった。
久しぶりのバイバイだった。西日の中をぼんやり歩きながら、「眠たい」と「幸せ」はまぶしい感じが似ていると思った。
それから7年後。
僕が高校を卒業して、大学に入学して卒業して、就職して退職して、実家に戻ってきた年の4月にまた山村くんを見た。
実家の隣に住むおじさんが定年退職をしたらしい。退職金を手にしたのか、連日のように家具・家電が送り届けられていた。それを僕は連日のように障子の隙間から観察していた。
無職になって約3ヶ月間、話し相手はひとりもおらず、外出するための手段も服も気力もなく、楽しみはどれだけお風呂に入らずにいられるかの記録更新しかなかった。そんな生活の中で唯一他者を感じられるのが、隣家を訪れる宅配業者だけだった。
外からトラックの音が聞こえると、特等席である2階の和室に飛び込み、障子に空いた穴から業者がソファや大型テレビを搬出入する一部始終を見届けた。
「こんな監視みたいなことして、君、まじでやばいよ」
と、ひとり言が2人称になっていることに疑問はもはや持たなかった。
宅配業者は普段は荷物を運び入れるだけなので5分もかからないのに、その日は違った。電気業者によるエアコンの取り付けが行われるらしく、隣家の庭で男2人が設置作業をしていた。
壁に穴を開け、管を通し、室外機をアンカー留めする作業着姿の男。
小さな穴越しでも、それが山村くんだとすぐに分かった。
顔や髪型はかつてのまま、身のこなしが慣れて落ち着いていた。薄暗い和室で穴を覗き込む無職に対し、山村くんは何かしらの工具を駆使して、もうひとりの男に何かしらを教えていた。2年で会社を辞めた僕に「後輩」はできなかったので、山村くんがずいぶんと年上の男性に見えた。
障子をスチャッと開け、かつての春の午後のように、
「山村くん!」
と、声をかけられれば良いのだが、脂の浮いたギシギシの髪の毛や、首元がヨレヨレのTシャツや伸びきって割れた爪が視界に入ると、声は出なかった。
山村くんは高校を退学したあと電気業者に就職をしたのだろうか。あるいは学校に入り直したのだろうか。いずれにしても、そのときの履歴書に貼られた証明写真に、僕の学ランも映り込んでいることは間違いない。
彼がこうして働いている1歩目に僕が関わっているのだ。
その考えは爽快感に似た気持ち良さを与えた。7年前に転がしたボールが、ピタゴラスイッチの装置のように、迂回して僕の手元に戻ってきたみたいだった。
退職して以降、世界中の人間から忘れ去られている気がしていた。実際、山村くんは僕のことを覚えていなかったかもしれないが、それは問題ではなかった。
山村くんの働く姿が僕をしてお風呂に入りたいと思わせたように、僕もまた誰かに何かを作用させているのだろうか。こまめに電気を消そう、でも、こまめにお風呂に入ろう、でも何でもいいからそうであってほしい。
障子から目を離すと、長い間覗いていたせいで左目だけチカチカした。「泣きそう」と「まぶしい」は眠たい感じが似ていると思った。
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