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【グラデセダイ48 / でこ彦】グラデーションな感覚#6「言葉にできない『感覚』」

「こうあるべき」という押しつけを軽やかにはねのけて、性別も選択肢も自由に選ぼうとしている「グラデ世代」。今回は会社員のでこ彦さんが感じてきた「第六感」について。

●グラデセダイ48

僕はおねしょが治るのが遅かった。
小学三年生になっても、夕食にお茶を飲まないように気をつけたり、逆に寝る前にコップ一杯飲んだ方が良いと聞けば試したが、一ヶ月に数回はズボンがびちゃびちゃになる不快感で目覚める羽目になっていた。

そのことは離れて住む祖母にも心配された。夏休みに遊びに行くと、ギンナンを封筒に入れて電子レンジでチンしたものを寝る前に食べさせられた。ねっとりとした食感と独特の風味は確かに効きそうだったが全く改善されなかった。
翌年は「ほれ」と言って画用紙を見せてきた。男の子がおねしょをして泣いている絵だった。有名な神社に行って、そこでこの絵をお祓いしてもらったのだという。それでおねしょが治るらしい。効果はなかった。
僕は祖母が怖かった。「ほれ」というぶっきらぼうな言い方が、「私がここまでやるのだからおねしょするなよ」という圧力に感じた。

祖母は子供を猫かわいがりするようなタイプではなかった。きつく感じるのは方言のせいだと母はフォローしたが、間違いなく性格のせいだと思う。風呂に髪の毛が浮かんでいれば「あんたらの髪毛が浮かんじょって汚いけん入られんが」と拾いに行かせ、近所の小学生から独居老人に向けて届く暑中お見舞いやクリスマスのカードは「だらずけ」と吐き捨てて内容を読まずにゴミ箱に捨てていた。「だらずけ」がどういう意味かは分からなかったが、その口調で察した。

そんな祖母にまで心配されるというのが恥ずかしいやら申し訳ないやらで、しかし何をどうすれば良いのか自分でも分からなかった。小学六年生の修学旅行ではおねしょが心配で一睡もせず、一生このままだろうかと悲観したが、小学校を卒業する前にはいつの間にか治っていた。改善理由も、どれが最後のおねしょだったのかも判然とせず、今のところ再発しないで済んでいる。

幼稚園入園のお祝いに祖母は青色の格子模様のハンカチを買ってくれた。
幼稚園はカトリック系だった。宗教的な理由ではなく、母が厳しそうなところを探して選んだらしい。

入園式の日に心細くて涙が出た際、初めて見る先生たちは黒ずくめの服で声をかけるのも恐ろしく、鞄の奥底から青いハンカチを取り出し、ひとりでこっそり拭った。声を上げて泣く子供はどこか別の部屋に連れられていったので身を引き締めた。

そんな引っ込み思案な性格だったせいで、秋の芋掘り大会で先生に「芋が取れました」と声をかけただけで、卒園アルバムに「あのとき話しかけてくれて嬉しかったよ!」と書かれてしまった。それしか喋らなかったわけでもないのに。卒園式の日はそのアルバムの他に聖書ももらった。子供向けの全編ふりがながついているものだった。表紙をめくると、先生の字で「でこ彦くんのお気に入りの言葉:人にしてもらいたいことを、人にもしなさい」と書かれていた。
それを見て僕は驚いてしまった。その言葉は別にお気に入りでも何でもなかった。

冬のある日、小雨の降る中、みんなで園庭に並ばされた。先生から「聖書の言葉を言いなさい」と指示が出た。「言えた者から中に入って給食を食べてよい」と。
僕は本当は思いついた格言があったのに大勢の前で声を出すことができず、活発な子たちが先にそのフレーズを叫び、中に戻っていく後ろ姿を見守った。
周りの人数が減ってようやく声が出るようになり、僕は未出の「人にしてもらいたいことを、人にもしなさい」を言い、園舎に戻ることを許された。

好きでもなんでもなく、人気がない格言だったに過ぎない。
「違うのに」という言葉は口から出せずに妙な違和感だけが残り、今でも僕にとって「神様」と聞くと、冬の雨の中で空腹に耐えながら見つめた同級生の背中がまず頭に浮かぶ。

小学五年生の夏に友人の城田さんの家で、かき氷にカルピスの原液をかけて食べた。
シロップ以外のものをかけて食べたのが初めてだった。
それを出してくれた城田さんは、好きなタイプを聞かれてハリウッド俳優の名前を挙げたり、ソックタッチをいち早く導入するなど大人びていたので、「やはりかき氷ひとつとっても我々とは違うんだな」と感心したのを覚えている。

彼女は転勤族で、すでに三つの学校に通ったということだった。それぞれの学校で毎回誘拐されそうになったと言っていた。
決して大きな声では笑わず、神秘的な笑みを浮かべて「効くやつあるよ」と新しいおまじないを伝授してくれるのも城田さんだった。
絆創膏の裏に好きな人のイニシャルを書いて貼ると両思いになれるおまじない。
薄もも色の折り紙の四隅に好きな人のイニシャルを書くと席替えで隣になれるおまじない。
狙った時間に目が覚めるおまじないや足が早くなるおまじないというのもあった。
転んで膝をすりむいたときに、校庭に生えている雑草を潰して傷口に乗せて手で押さえつけてくれたことがあった。「傷の手当て、と書くのは、昔の人は手を当てることにヒーリング効果があるって知ってたからなんだよ」と教えてくれたのはおまじないだったのか、豆知識だったのか。

僕の片思いが実ることはなかったが、おまじないをするという行為だけで楽しめた。どこで仕入れてくるのか不明でそれもまたミステリアスだった。
城田さんが仰々しく紙をちぎって何か呪文を唱え、各自それを持っていると来年も同じクラスになれるというおまじないもあったが、効果はなく、彼女は六年に進む前に転校して行った。

祈りとか神様とかおまじないとか、そういった第六感の恩恵に縁のない人生である。
そういえばお守りも持ったことがない。もらったことがない。
交通安全、学業成就、絶対優勝。
お守りというのは親が神社で買ってきたり、部活のマネージャーがフェルトで背番号入りのものを作ったり、他人からもらわないと意味がない気がする。神頼みではなく、他人からの思いが支えになるのだろう。

先日、夕食後に茶碗にこびりついた米粒を指でつまんでいるとき、あまりにも孤独で叫びそうになった。
自分のために料理して食べて皿を洗ってまた料理しての繰り返してある。誰かのために何かをするというイベントが欠如している。常にひとりだ。たとえば三年前のできごとであっても共有できる友人・家族がいない。どこで何を間違えたのだろうとぼんやり後悔をしてしまう。

祖母は何年か前に死んだらしいと伝え聞いた。死因や葬式がいつだったのか墓はどこにあるのか知らない。祖母はまだ生きているような気がする。
淀んだ空気のように、僕の中で記憶がさまよっている。

夜寝る前にトイレに行くと、祖母を思い出す。
サツマイモを見ると幼稚園の先生を思い出す。
カルピスを飲むと、絆創膏を貼ると城田さんを思い出す。
幼稚園のチャペルも城田さんの部屋に飾ってあった山の写真もありありと覚えている。
この思い出はどこにあるのだろうか。目で見ることも耳で聞くこともできないが確かにはっきりとある。

人との関わりが思い出の中にしかない。この記憶が僕にとってのお守りなのかもしれない。彼ら彼女らも僕を思い出すことがあるだろうか。あるといいなと願う。修学旅行でおねしょでもしていれば強く印象づけられたかもしれない。

1987年生まれ。会社員。好きな食べ物はいちじくと麻婆豆腐。
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