グラデセダイ

【グラデセダイ44 / でこ彦】グラデーションな感覚#5「ノーミュージックなマイライフ」

「こうあるべき」という押しつけを軽やかにはねのけて、性別も選択肢も自由に選ぼうとしている「グラデ世代」。今回は会社員のでこ彦さんが意外な場所で感じた「聴覚」の感覚。

●グラデセダイ44

人生で初めて買ったCDは小学五年生のときのブラックビスケッツ「タイミング」だった。続いて中学一年生のときに三木道三のアルバムを買ったのを最後にCDを買っていない。

音楽は聞き方が分からない。周囲を困らせるほどの音痴で、楽器も何も弾けない。指を器用に動かせないのでピアニカは苦手、音楽の授業でトライアングルやギロなどの打楽器を任されてもリズム感覚が欠落しているので場を乱す。楽譜を「がふく」と読んでいたし、オクターブは「億ターブ」だと思っていた。ノーミュージック・ノーライフとは何なのか皆目検討がつかぬ。

だからといって人生に不要だとも思わない。好きな曲はあるし、傷心をなぐさめてくれた歌もある。僕にとって音楽は「聞く」という能動的なものではなく「聞こえてくる」ものなのだ。花火大会の日に家にいて、上空ではぜる音を聞いてそうか今日だったかと思うような距離感である。遠くの空がうっすら白く光るのを窓から見て満足する。会場へ行って場所取りをしてまで見ないし、夏の星座にぶらさがって上から見下ろしたり、手持ち花火を買おうともしない。もちろん自作しようと思いもしない。見たら見たで美しいとは思うだろう。

音楽的センスが全くないのは親のせいである。断言したい。
母が小学生だったころ、音楽の授業で「楽器は何を弾いたことがあるか」と尋ねられたという。クラスメイトはピアノやリコーダーと答える中、母は「木琴」と答えた。家におもちゃがあったらしい。すると音楽教師は「そんなものは楽器と呼びません!」と母を叱り付けた。よっぽど恨んでいたのか、僕が家でピアニカやリコーダーの宿題をしていると母は近付いてきて数十年ごしの文句を聞かせた。まるで楽器を弾くことが悪いとでも言いたげである。代わりに我が子は楽器を習わせようという発想はなかったらしい。
加えて母は音痴だった。正確には、父は母を音痴だといってからかった。何かの素人のど自慢コンテストで入賞をした父は自分の美声に誇りを持っていて、家族が上機嫌で鼻歌をもらせば「あんたは鼻歌まで音痴じゃね」と止めさせ、続きを代わりに歌った。鼻歌を乗っ取られた家族は不機嫌になり、不機嫌になったことを父は生意気だと怒り、怒鳴られる殴られるかするのが毎度だった。
もともとあったかどうかも怪しい僕の音楽的センスは、かくして花を咲かせることなくくすぶって枯れ果てた。

かつてNHKで放送されていた「中学生日記」に「地底人伝説」というエピソードがあった。あらすじは省略するが、作中ひとりの女子生徒が屋上でコントラバスを弾くシーンが登場する。片思いの男子に対する恋心、期待、嫉妬や軽蔑などさまざまな思いを乗せた物々しい演奏だった。放送を見ていた高校生の当時は、感情を昂らせていきなり楽器を弾く演出を面白い場面だと思って笑うだけだった。
しかし、その数年後に就職をして抱えきれないストレスを感じていたときに突如ハッと思い至った。楽器とは音を出す道具ではなくて周りの空気をかき混ぜる道具なのだ、と。
そのころは社用車のラジオの音量を上げに上げて高速道路を走るのがストレス発散だった。そうすると頭の中の雑音が消えるだけでなく、音声が顔の近くで渦巻くのが見えて爽快だった。漫画のオノマトペのように音が文字になって猛スピードで後ろへ流れていくと、一緒に自分の声にならない声も消えていくようだった。先輩たちの小間使いとして東奔西走させられた僕の不満はいまも山陽自動車道のどこかに落ちているはずだ。
ストレスではち切れそうになるたびに高速道路を走らせるのは難しい。大きい音を発したい。振動する空気に身を包まれたい。「それが楽器か!」と理解した。
「地底人伝説」のあの女子生徒も、演奏することで体内でぐるぐるうねった感情を外に引きずり出していたのだ。体にまとわりつく空気をばりばりとかき混ぜていたのだ。外で空気が振動していると自分の体の輪郭がはっきりするようで気持ちがいい。自分の狙ったとおりの音が出せるのだからその快感は高速道路の比ではないだろう。
楽器が弾けたらどんなに気持ちが良いだろう。と願ったのはほとんど初めてだった。

しかし僕は自分の音楽的感性を諦めているので楽器にははなから挑戦せず、それに代わるものを探した。
小説を書いたり読んでみた。違う。我流で絵を描いたり美術館へ行くがやはり違う。これらはどちらかというと内面をかき混ぜる行為だった。自分の中の過去と現在を結んでメビウスの輪を作るような感覚である。心の底に沈殿したそれらを、タピオカをすするストローのようにブボブボと吸い取り、吐き出したいのだ。
体を動かそうと思いついたが、運動音痴でもあるので突飛なことは始められない。散歩をしてみた。どうも中立的だった。消しゴムはんこ作りや料理も中立的だった。内側にも外側にも目が向かない。平坦で落ち着いた気持ちになれるのでそれはそれで効果はあった。
なかなか外側をかき混ぜる行為はないもので、探すこと自体を忘れていたころ、あるものに出合った。サウナである。

楽器を鳴らす。サウナ室でじっとりと汗を流す。
ふたつの行為は僕の中で同じだ。
ロウリュと呼ばれるサウナ室でタオル等を振り回して熱波を送る動作は文字通り外の空気をかき混ぜるものだが、そういう意味だけではなく、背中から二の腕から腿から全身から汗を吹き出させていると自分の輪郭がはっきりする。ここまでが自分の領地だと理解できる。100度近い熱気が体にまとわりつくさまも目に見え、声にならない感情が雫となって足もとに広がる。
続けて水風呂に入るとその輪郭はより明確になる。体と水との間にできる境界線を意識すれば頭の中の雑音も消え、体は縮こまっているが高速道路を飛ばすのに似た疾走感さえ感じる。
いちばん好きなスーパー銭湯には個室のサウナがある。そこは畳敷きの茶室のような小屋で、三角座りをしたらもう身動きがとれないほど狭い。照明もテレビもなく、サウナ石の吐息しか聞こえない。屋上でコントラバスを暴れ弾くような開放感はないが、熱く狭く暗く静かな中で汗を流していると外側の空気がぐるぐると攪拌され、感情がリセットされる。
そのサウナ室から出ると太ももに畳の跡が残る。でこぼこになった肌はギロのような感触だが、こすっても音は出ない。やはりどこまでもノーミュージックなマイライフである。

1987年生まれ。会社員。好きな食べ物はいちじくと麻婆豆腐。
グラデセダイ