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【グラデセダイ61 / Hiraku】日本でゲイ友ができない、3つの要素 その1:会話

「こうあるべき」という押しつけを軽やかにはねのけて、性別も選択肢も自由に選ぼうとしている「グラデ世代」。今回は、中村キース・ヘリング美術館プログラム&マーケティングディレクターのHirakuさんのコラムをお届けします。

●グラデセダイ61

なぜ私は日本でゲイ友ができないのか

私はニューヨークで育ち、2014年に日本へ引っ越してきましたが、日本でもさまざまな出会いがありました。それまで、学校も仕事も、恋愛も失恋も全てアメリカで経験し、常に友だちがたくさんいたタイプの私は、日本に住むことでどんな経験や出会いが待ち受けているのか楽しみにしていました。さまざまな友だちがいる中で、とりわけ大切にしているのは同じゲイ男性との友情で、同じような仲間たちが日本でもできることを期待していました。しかし7年経った今、アメリカ時代に比べ、できたゲイ友の数は明らかに少数。そこから日本人だけを数えると、思いつく人数は数人にしか過ぎません。いったいなぜ日本では友だちができないのでしょうか。

これから「日本人」や「アメリカ人」という表現を使いますが、私のいう「日本人」とは、あくまでも「私が日本で出会ってきたゲイ男性たち」を指しています。読者のみなさんや他人について語っているわけではありません。またここでいう「アメリカ人」とは、必ずしもアメリカ国籍を持つ人のことを指すわけではありません。もちろん日本でよく想像される白人のアメリカ国籍の人たちもいますが、私が出会ってきた人たちは、アメリカ国籍の有無関係なく日本人を含むさまざまな国籍や人種、文化背景を持った人たちです。「日本人」と同様、「私がアメリカで出会ってきたゲイ男性」についてであり、アメリカにいる人たち全員の話ではありません。ここでは、そういう人たちを総称して「アメリカ人」とさせていただきます。

出会いの中で私が個人的に大切にしているのは「会話」「アクティビティー」「インティマシー(親密さ)」です。この3つの要素を順に比較していこうと思います。この3要素、一つひとつが長くなりそうなので、シリーズ化してみます。今回はまず、「日本人との会話」について、私の目線でお話しします。

日本人の友だちとの「会話」の距離感

アメリカで私がゲイの友だちとする会話の主なトピックは「恋愛」や「社会問題」、「エンターテイメント」についてです。恋愛に関しては、好きな人やデートのことはもちろん、セックスについても語ります。例えば、最近ショッキングだったセックス体験の話が社会問題や政治に結びつき、それが描写されている映画や本、ドラマなどといったエンターテイメントの話になったりもします。読者のみなさんの中にも親しい友だちとそういう話をするという人もいると思いますが、私の周りでは、初めて会った人同士でもこういう流れの会話を日常茶飯事にします。

一方で、日本人との会話は主に「仕事」や「ニュース」、「SNS」についてが多いでしょうか。初めて会った人とはまず職業について話し、最近のニュースやSNSの交換などといった流れになります。
正直、日本で初めて会う人たちとの会話は、私にはとても退屈であり、日本に来たばかりの頃は、アメリカの調子でもっと立ち入った質問や意見などをしてしまい、同席している人たちの困った顔に、首を傾げていました。日本では初対面の人とディスカッションするのはあまり好ましくないようですね。

恋愛の話は酔っ払ってするもの?

仲が良くなってもあまり恋愛の話をしてくれない人もいました。出会ったばかりの人にセックスについてベラベラと話す私はさておき、一向に自分の話はしてくれない状況を初めて経験したとき、「あれ?友だちだと思ってないのかな?」と寂しくなりました。ところが、私の経験上、そういう人って大体酔っ払うとセックスの話ばかり。この私が耳を塞ぎたくなるほど深いところまで勢い余って話すんです。お酒を飲んだときだけ延々と話を聞かされることに、利用されている気分になり、少し腹が立ちます。

それから、笑いのツボも違うと感じます。アメリカでも、特に私のいたニューヨークの、さらにはゲイコミュニティー内では、からかい合いが日常茶飯事に行われていました。私の周りはみんな皮肉っぽく、粗探しをし、けなし合って笑いをとるスタイルでした。
その調子で、日本で仲が良くなったゲイの友だちをからかっていると、ある日「傷つくからやめて」と言われてしまいました。確かに冗談だと分かっていないとびっくりしちゃいますよね。

また、日本のお笑いの動画などを見せられても、何が面白いのかあまりわからず、会話についていけないことも多々ありました。何だか内輪だけがわかるジョークを、日本人たちだけが分かって笑っているような、何とも入っていけない世界だと感じてしまいます。

日本社会の「空気を読む」難しさ

会話において、日本社会から私に課せられた大きな課題は「空気を読む」ということでした。もちろん意味はすぐにわかりました。アメリカでも「read the room (部屋を読む)」という似たようなニュアンスの表現もあります。ただ私たちが部屋を読むときは、悲しいことが起こった友だちが一緒にいるときに、傷口に塩を塗るような話をわざわざしないように気をつけたりするくらいでしょうか。一方で、日本人が空気を読むときは、日本人にしか理解できないような会話中の微妙な差異があり、どんなに直接関係のあるトピックでも、スケールによって共有すべきか否かといった具合だと感じます。

私にとって、マルチリンガルとは、話す言語によって少し目線や方向が変えられる人だと思っています。なんというか、表情や思考回路を含めて体全部でその言語のパーソナリティーが乗り移る感覚です。私は日本語を喋っているときに、急に英語の単語を英語の発音でペラッと話したりせず、笑顔や仕草なども、まるで日本人になってしまいます。それは、練習したからです。

私は最初、日本にお邪魔している感覚でした。その土地に行ったら、その土地のルールやマナーを守るべきだと思っていました。そのノリで、空気も頑張って読もうとしました。でも、いくら空気を読んだつもりでも「難しい人だ」とか「ややこしい」と言われ続けてきました。
自分の意見を持つことや、独立した考え方を持つことは、日本でも素晴らしいことだと言われます。ご存知の通り、私も自分の意見や考えをたくさん持っているので、日本が正しいとしていることに沿って存在しているはずです。しかし、空気が読めないのです。

私が空気を読むことを諦めたワケ

私はもう日本にお邪魔しているという感覚はありません。税金だって払っているし、パスポートだって持っています。日本は自分の国であり、社会の一員でもあります。私が意見を述べる理由は、環境を改善したいからです。ところが、その勢いは日本人にとって過激すぎるようで、アクティビストの人たちでさえ、私をパネリストやスピーカーとして使うことをためらいます。それは用意されたトピックに対する私の考え方が基準ではなく、私が普段彼らとどう付き合っているかによって決められているのです。

何年経っても理解できないので、私は空気を読むことは諦めました。もちろん部屋は読みます。ですが、私生活で友だちを作る場面や、私個人の思想を共有する場所で、言いたいことも言えない環境は酷過ぎます。もう私は空気を読まなくてもいい人としか仲良くなれず、周りの人たちはどんどんと去っていきました。

しかしこれでは止まらず、私と日本人との友情を立ち塞ぐ更なる試練が現れるのです。

次回に続く

ニューヨーク育ち。2014年まで米国人コスチュームデザイナー・スタイリスト、パトリシア・フィールドの元でクリエイティブ・ディレクターを務め、ナイトライフ・パーソナリティーやモデルとしても活動。現在では中村キース・ヘリング美術館でプログラム&マーケティングディレクターとして、自身が人種・性的マイノリティーとして米国で送った人生経験を生かし、LGBTQの可視化や権利獲得活動に積極的に取り組んでいる。
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