警察官になって近代五種の道へ。スポーツ万能だけどキツイのはイヤ…。「母を五輪に連れて行きたい」思いが、髙宮なつ美さんを動かした【前編】

フェンシング、水泳、馬術、射撃、ランニングの5種目に1日で臨み、肉体の万能性を競い合う近代五種。海外ではキング・オブ・スポーツと呼ばれるこの競技で、東京五輪の出場権を獲得しているのが警視庁の高宮(旧姓 朝長)なつ美さん(28)です。インタビュー前編では、五輪への思いや警察官になってから始めたという異色の経歴をたどります。

――東京五輪の1年延期の決定をどう受け止めましたか。

髙宮なつ美さん(以下、髙宮): 落ち込みました。
「東京オリンピックに出場したら競技生活を終わりにする」という気持ちで、きつい練習に取り組んでいました。つらくなると「あと少しだから」と何度も自分を励まして。東京五輪以外にも目標があったり、練習環境が整っていたりするアスリートなら前向きになれたかもしれません。でも私の目標は「東京」のみ。しかも職業は警察官。競技に特化した環境にいるわけではなく、設備も十分ではない。肉体的にもきついのに、あと1年練習を続けるのは精神的にも厳しいなと。
これが2年だったら、競技をやめていたと思いますね。

 

教官が変なことを言い出した!?

――そもそもなぜ警察官になろうと思ったのですか。

髙宮: 父は警察官でしたが、私は高校生になると、美容師になろうと思っていました。ところが高2のとき、先生から「性格的にも向いているから警察官になった方がいいよ」と薦められて。早く自立したかったので、専門学校に行くより就職した方がいいと思ったんです。
高校3年間は反抗期だったせいで父とはほぼ会話がなく(笑)、仕事の話は聞いたことがなかったんですが、テレビドラマの影響からか、警察官になるなら刑事がいいと思うようになりました。

――近代五種を始めたのは警視庁に入ってからだそうですね。

髙宮: きっかけは警察学校です。
入校前に父が他界し、母はずっと落ち込んでいました。
どうにか元気づけたくて、何をすれば喜んでくれるかと考えていたとき、警察学校で1500メートル走の記録会が開かれることに。良い成績を出せば、母が目にする警察の機関誌に記事が載ります。それをきっかけに、母が、警察関係の方々と父の思い出話をする機会もあるかもしれないと考え、走りました。すると、校内の女子歴代記録を更新するタイムが出たんです。

しばらく経ったある日、体育教官に呼ばれました。
教官は得意げに「朝長(旧姓)をオリンピックに行かせる計画ができたんだよ」と言いました。でも私は「教官が変なことを言い出した」(笑)と聞き流したんです。
その後、警視庁の近代五種部の監督から、やってみないかと話がありました。
全く知らないスポーツでしたが、「競技人口が少ないのでオリンピックが狙いやすい」という説明に興味がわきました。母をオリンピックに連れていけば元気を出してもらえるんじゃないかと真剣に思うようになったんです。

――思い描いていた刑事の道とはずいぶん展開が違います。抵抗はありませんでしたか。

髙宮: ちょっとはあったんですが、好奇心が勝ちました。ただ、最初に配置された立川警察署の先輩方には申し訳なかったです。「刑事になりたいです!」と言う私に、たくさん教えてくださっていましたから。だからこそ、早く競技で結果を出そうという気持ちも強くなりましたね。

 

やる気がないのに陸上大会で優勝

――競技を始めると2年で全日本を制覇し、3年でアジア5位となってリオ五輪への切符をつかみました。子どもの頃からスポーツが得意だったのですか。

髙宮: 3歳でスイミングを始め、やがて選手コースに入りました。でも、練習はきついし、合宿ではたくさんご飯を食べなければならないし、プールってけっこう寒いじゃないですか。だんだんイヤになってきて。ジュニアオリンピック出場に0.2秒足りなかったのがダメ押しになり、小6でやめました。

小学校時代は陸上もやりました。1000メートルやロードレースで、地元の埼玉県狭山市の大会で1位を取りました。でも、きついから「やりたくない」とごねていましたね(笑)。

中学校では、球技がやってみたくてバスケ部です。楽しかったですね。レギュラーとして、毎日夜までボールを触っていました。
夏は水泳部の大会に、冬は駅伝にも出場しました。水泳では県大会入賞です。バスケのせいか身長がすごく伸びたんですよ。そうしたら自然とタイムも伸びてきて。

――高校ではバスケ部か水泳部ですか?

髙宮: いえ、バスケ部のうまい選手たちを見てレギュラー入りは難しく感じ、入りませんでした。というか、運動したくなくて、帰宅部になりたかった。
でも、何か一つは部活に入らなければならない高校だったので、夢は叶わず(笑)。
先輩に誘われ、陸上部に入りました。「入部したらお小遣いをちょっとアップする」と母に言われたのも大きかったかもしれません。最高で800メートル県大会6位、駅伝で関東大会出場でした。

 

平均的にできることが強み

――これらのスポーツ経験が近代五種にも生きているのですか。

髙宮: 私には特別な得意種目はないのですが、5種目を平均的にできます。ある程度泳げるし、フェンシングもそこそこ点数が取れる。射撃が課題ですが、ランのタイムも悪くない。自分の強みだと思っています。
ただ、私は今年で29歳。海外では30代の選手もいますが、若い子も育ってきています。射撃後に800メートル走を4回繰り返すレーザーランは体力勝負の面があり、順位の入れ替わりが激しい。今後は、どれだけ粘れるかが大事だと思っています。

 

リオで感じた「生きていてよかった」

――初出場したリオ五輪の思い出を教えてください。

髙宮: 実は、馬術が終わるまでの記憶がほぼありません。本当にきつくて、ゴールしてようやくオリンピックの実感がわいてきましたね。
競技が終わり、誰からともなく、選手全員で競技場を一周しようということになりました。近代五種は競技時間が長いので、言葉が通じなくても出場選手の間に絆のようなものが生まれるんです。
みんなで走って客席に感謝を伝えていると、手を振る観客の歓声が自分に落ちてくる感じがした。そのとき「オリンピックは本当にすごい舞台なんだ、幸せだ」「生きていてよかった」と心の底から思いました。あの光景は今でも鮮明に、頻繁に思い出します。

ただ、良い思い出ばかりではなくて。リオへの出場が決まってから苦しくなり、引退を考えたこともありました。
代表に決まると、取材は増えるし、だれからも「オリンピックがんばってね」と言われる。試合結果の一つ一つにさまざまな批評もされる。メダルをめざすには、実力や練習方法、環境面で足りないものがあり過ぎました。相当なストレスで、「逃げ出せたらどれだけ楽だろう」「誰も知らないところに逃げたい」と思い続けていました。

 

笑顔で終わるために

――東京五輪が近づけば、また逃げ出したくなりませんか。

髙宮: そうですよね、あれをまた味わうのかと想像すると……ずっと葛藤はあるんです。
昨年12月に結婚し、家事との両立は気を失いそうになるほど大変なときもあります。
でも、母を喜ばせるためのオリンピックではなく、次は自分のために出たいんです。そして、リオには呼べなかった、私を支えてくれたたくさんの人に見てもらい、感謝を伝えたい。それが最高の終わり方です。あと1年頑張るのは正直きつい。ですが、がんばってきた自分が、笑顔で終わるための毎日にしていきたいと思います。

 

●髙宮なつ美(たかみや・なつみ)さんのプロフィール
1991年8月生まれ。埼玉県狭山市出身。県立川越南高校を卒業し警視庁へ。第四機動隊所属。3歳からスイミングに通い、中学時代はバスケットボール部で活躍。高校では陸上部に所属し、駅伝で関東大会出場。警視庁入庁後に近代五種を始め、4年足らずでリオ五輪12位。2017年W杯で日本歴代最高の4位。19年11月のアジア・オセアニア選手権で日本人トップの銀メダルに輝き、東京オリンピック出場権を獲得した。

見渡す限り山と田んぼの里山育ち。記者として関西、東海、首都圏で取材。最近はウェブ周りをうろうろしています。
1989年東京生まれ、神奈川育ち。写真学校卒業後、出版社カメラマンとして勤務。現在フリーランス。
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