アスリートの立場とは?「走ることが嫌い」と公言する陸上・新谷仁美さんが5年のブランクを経て、復帰したワケ【前編】

「走ることが嫌い」。1万メートルなどで東京オリンピック出場をめざす新谷仁美さん(32)は話します。引退後、会社員を経て約5年後の30歳に復帰。現在は再び第一線のアスリートとして活躍しています。嫌いなのになぜ、トップをめざすのか。お話を伺いました。

ブランクがあっても余裕だった

――2013年のモスクワでの世界陸上を最後に25歳で引退。会社員になった後、5年後に復帰されました。「走ることは嫌い」なのでは?

新谷仁美さん(以下、新谷): 走ることは嫌いだし、走っていて楽しいと思ったことはありません。きっかけは引退後に(所属した)NIKEさんから声を掛けて頂いたことです。漠然とOLを続けているより、走ってトップをとった方が手っ取り早く稼げると思ったんです。ブランクがあっても、日本トップくらいならなれる自信もありましたしね。ビジネスとしても成立すると思ったんです。

復帰へのプレッシャーもなく、陸上の世界に戻りましたね。

一方で若い選手でも一度故障したらすぐに引退する選手も珍しくない中、30を超えた私が、ブランクがあっても世界を目指して戦えることを示して、若手に刺激を与えられたらという思いもありました。

――引退後の会社員生活では、リズムや環境の変化に戸惑いましたか。

新谷: 起床時間は6時か7時で変わらないですし、朝食を食べて出勤するまでは一緒。ただデスクワークは、ほぼ未経験。エクセルやパワーポイントなどの使い方も分からない状態だったので、最初の2年ぐらいは特に苦労しました。ほかの社員が定時で終了するような仕事でも、私は時間を過ぎてもなかなか終わらない。ずいぶん迷惑な社員だったと思います。

アスリートはいい身分?

――会社員を経験したからこそ、わかったことはありますか。

新谷: 引退前から感じていましたが、実業団に所属していたり、アスリートと呼ばれたりする選手は、いい身分だなって改めて思いました。外の世界に出て、アスリートに対する「楽ないい仕事だね」という声を直に聞いたことが何度かあり、アスリートの見られ方を痛感したんです。私のことを嫌いなのか、アスリート全般を指しているかはわかりません。それでも少なくとも私がそう言われるということは、他の人も同じように思われている可能性もあるし、実際ぬるい世界なのかも・・・。

――ぬるい?アスリートは、限界ギリギリまで自分を追い込み、ストイックな生活をしていると思っていました。

新谷: おそらくそれって数少ないと思います。ほぼ全員が自分は頑張っているという気持ちではやっている。ですが、努力しているかどうかは第三者が判断すること。自己満足だけなら、それまでだなって感じます。

日本の試合に出て、今日失敗したから次頑張ろうと言って、世界レベルをめざさなくて、給料貰っている人もいる。普通の社会人では許されないレベルですから。そういう意味でぬるい世界だなって思います。もちろん実際に出場していなくても、タイムとしては世界で通用するレベルなら文句は言わないです。

ただ現実は、日本の代表選手は、世界では戦えない場合が多い。正直、アスリートとしての価値はどうなんだろうって思います。日本代表を背負う意味について考えてしまう。ちょっと走るのが早くて好きという選手も実業団、特に長距離の分野にはいる印象を受けます。

復帰したときは、「そのイメージを変えたい」という思いもあったことも確かですね。

――アスリートは手の届かない存在だと思っていました。

新谷: いえいえ!確かにシドニー五輪金メダルの高橋尚子さんや、その世代の方はストイックだったと思います。今は、特別な成績を特に求めないけど、走るのが速いからと実業団に選手として入る人もいる。引退したとしても、会社員として安定した生活が出きますから。それも一つの手だから、私は否定しないし、いろいろな生き方があると思います。ただ、アスリートという看板を背負っている以上、どんな理由でその場にいても、やることはやろう!ということを言いたいのです。

――男性選手と、女性選手の違いを感じていますか?

新谷: 男性選手が新記録をどんどん出しているのに、同じ環境のはずの女性選手からは、記録が出てこないのか…。とても引っかかっています。だからずっと避けてたハーフマラソンに今年は出場して日本記録を出しました。女性選手の止まってきた駒を進めることは私もできる、と思っています。

メンタルを破壊した無月経

――引退前の25歳で無月経も経験されています。

新谷: 誰かに無月経になりなさいと指示をされたものではなく、自分が結果を求めるために気持ちがいきすぎて過剰に走り込んだ結果、無月経になりました。はじめは2,3日、1週間程度遅れたものが、最終的には1年ほど止まりましたね。自分がやったことなので後悔はしていませんが、アスリートとしてその姿を見せてしまったのは反省すべきだったなと思います。

――誰かに相談はされましたか。

新谷: 岡山に住んでいる母親には話をしましたが、他には一切、相談しませんでした。自分も心を開いていなかったし、当時の環境で信じられる人を一切つくってこなかったから。学生時代から「生理は女性に必要なもの」と学んできたので、止まってしまったことに対する恐怖感が凄かったです。

当時は年齢的な若さもあって、メンタルは落ちましたが、無月経でも大きく体調が崩れることもなかったです。それでも次第に体調は悪くなり、足底筋膜炎にもなってしまいました。ただ、その時期に世界陸上の代表に選ばれて自己ベストを更新したんです。ただ、無月経で足を痛めていても結果を出せるんだ、ということを見せたのは反省点です。今でも心残りです。

■新谷仁美(にいや ひとみ)さんのプロフィール
1988年2月岡山県生まれ。興譲館高校を卒業後、豊田自動織機女子陸上部に入部。2012年のロンドン五輪1万メートルで日本人最高の9位。13年のモスクワで開かれた世界陸上では1万メートルで自己ベストをマークし、5位入賞。14年1月に引退したが、18年にNIKE TOKYO TCに加入。約5年のブランクを経て競技に復帰した。東京五輪参加標準記録は5000メートルと1万メートルで突破している。現在は積水化学に所属。

東京生まれ。千葉育ち。理学療法士として医療現場で10数年以上働いたのち、フリーライターとして活動。WEBメディアを中心に、医療、ライフスタイル、恋愛婚活、エンタメ記事を執筆。
カメラマン。1981年新潟生まれ。大学で社会学を学んだのち、写真の道へ。出版社の写真部勤務を経て2009年からフリーランス活動開始。
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