振り切って生きていく「オタク女子」からみる多様化の価値観
「オタク」と聞くとどんな印象をもつだろうか。
アニメ、漫画、ゲーム、コミケ、コスプレ、プラモデル、痛バック…テレビや雑誌で話題になるものだけでもたくさんのジャンルがある。
オタクといえば、かつて映画化もされた「電車男」にあるようないわゆる、ダサくて、なんとなく得体のしれない人たちだというイメージだったように思う。
オタクであることがバレることは、社会的に生きづらくなってしまう。そんな時代だったように思う。
オタクの中でもいわゆる“鉄オタ”であれば「乗り鉄」「撮り鉄」とさらにカテゴリが分かれていたり、ずいぶんと複雑で、多様で多彩だと思う。
私自身もオタクだ。アニメもゲームも、二次元三次元と問わずアイドルも舞台俳優も大好きだ。休日になればコスプレするためにスタジオへ遠征し、ライブのためにおしゃれをし、大好きなゲームのインベトがはじまれば惜しげもなく課金をし夜な夜なプレイし、給料日前には食費を削り削り生活する……、そんな私が「多様性」の意味について考えてみた。
普通で「みんなとおなじ」を求められる学校生活
今でこそ、オタクという言葉は一般化しているが、数年前はオタクであることは世間に引け目を感じなければいけないものだったように思う。
「オタク」とは少数派であり、はみ出し者であり、異端であるからだ。
人間は本能的に、自分とは異質なものを排除するものだ。オタクが少数派であることはなんら不自然なことではなかった。
その最たる場が学校生活だと思っている。
私は物心がついた頃から漠然と、「自分は結婚しない」「自分は子どもが欲しくない」と思っていた。それと同時に、その考えは「みんなとは違う」ことだと感じていた。
保育園、小学校と周りの友人たちの「かわいいお嫁さんになりたい」という話を聞きながら、「自分はそうは思わっていない」という事実を口にしない方がいいんだろうなと本能的に感じていた。「みんなと違うことはよくないことだ」と何となく感じていたからだ。
同じ場所で、同じ人たちと長い時間を過ごし、人間の感性が育まれる学校生活において、「みんなと同じ」であることが最良であるとされる。そこから逸脱することは、集団から外れてしまうことを意味している。それは自分がマイノリティだと感じていた私にとって、生きづらさを感じる体験だった。
いま思えば、学校では「みんな同じ」であることを教えられ、「みんな同じ」行動することを良しとする風潮がどうしてもある。ましてや、自分と違うものへの恐怖や受け入れがたいという心理は当たり前なのかもしれない。
好きなことを貫く生き方
今でこそ自由気ままにオタクを謳歌しているが、学生時代は親の理解があまりなく、隠れてアニメを録画したり、友人の家に漫画を読みにいったりしていた。
思春期を迎えるころ、いよいよ「みんなと同じ」でなければならないことがストレスの頂点に達し、教室の端で司馬遼太郎や刀の美術書を読むようになった。言わずもがな、集団からは孤立をしていたし、登校したら自分の上履きがないということもあった。今でもそのころの同級生の友達は少ない。
そんなイジメのようなことをされようが、林間学校で最後に人数が足りないグループにしぶしぶ混ぜてもらう存在になろうが、好きな本を読んでいる方が何十倍も心が満たされていたのだ。
そのうち似たようなオタク友達がチラホラとできはじめた。
その友人たちは、好きなアニメが被ることはあっても好きなキャラが被ることがなかったり、そもそも同じアニメや漫画を見ていなかったり、みんな同じであることはほぼなかった。それでも不思議なもので、互いを排除することなく、むしろ互いの好きなものに関心を持ち、そこから互いの好みやアイデンティティを知り、そういう見方や価値観があるのだ、と自然と教わったように思う。
それぞれに好きなことがあり、個性がある。そんな「多様性」の受容を、私はオタクである自分とオタクである他人との関係性を通じて学んだ。
多様性の中にいきるひとり
私はいま、まぎれもない「オタク」であり、それを隠すこともなく生活している。
それが自分のアイデンティティであり、生き様だと思っている。
時代が変わってきたことと、環境に恵まれていることもあり、今は好きなことをてらうことなく前面にだしている。
年齢的に、「結婚は?」「子どもは?」と聞かれることは多い。そういう生き方をするつもりがないと言うと、怪訝な顔をされることもある。けれども、相変わらず結婚する気はない。誰かとともに生きる人生よりも、好きなアイドルを追いかけ、好きなアニメの聖地巡礼をし、「今月も懐が苦しいな」と言いながら好きなものに寄り添い、好きなものを追いかけ続ける生き方の方が自分らしいと感じるからだ。
自分がマイノリティであることの自覚はある。しかしそれ以上に自分はこの世界の「多様性」の中の一要素だと思っている。みんな違うなかでの、「ひとり」という生き方をしているのだ。