ホテル勤務(25歳)

日本一高い場所にあるホテルで働きながら考えた「これからの夢」

標高2450メートル。立山黒部アルペンルートの室堂平に建つ日本一高いところにあるホテルで仕事をする入社2年目の20代女性。てきぱきとした対応と語学力で接客する姿に感心し、声を掛けました。笑顔で「星に一番近いリゾートホテルへようこそ」と言われました。

カナダのモントリオールからのお客様から、「メルシー」は「ありがとう」、「メルシーボークー」は「どうもありがとう」だと教えてもらいました。中国語を話せる同僚もいて、私は英語圏のお客様への対応を任されています。海外からのお客様は多く、接客業務を通じ日々、いろんな発見がありますね。

両親は転勤族で、滋賀、新潟、福井、神奈川、石川と引越しを繰り返し、中学校に入ってから富山県内で落ち着きました。地元の高校で学び、大学受験に失敗。どうしても英文科に行きたかったんですが合格できませんでした。そこで1年半、カフェでアルバイトをしてお金を貯め、1年間カナダのバンクーバーにワーキングホリデーで滞在しました。帰国して地元の外国語専門学校で2年間学び、23歳で現在のホテルを経営する会社に就職しました。

ワーキングホリデーでカナダに滞在した頃の1枚(右から2番目。本人提供)

4勤1休。夕日を見ると、ほっとします

現在は入社2年目。宿泊の依頼を取りまとめる「予約担当」です。うちのホテルは81部屋あって、観光シーズンの4、5、7、8、9、10月は、ほぼ満室です。春は雪の壁の間を歩く「雪の大谷」、夏は高山植物、秋は紅葉と自然はさまざまな表情を見せてくれます。

山側の部屋から見る景色が美しいので、そちらから空きを埋めていきます。オーバーブッキングなどの失敗もありましたが、先輩らに助けられています。予約はネットが多く、WEB上にもデータを管理するページはあるのですが、最終的には紙の台帳にまとめるんです。意外とアナログですよ。

ここは、ホテル業界の団体に登録しているなかでは1番高い場所にあります。特殊な環境だと思います。仕事は4勤1休、つまり3日と半日働いて下山し、1日と半日休み。通勤はなく寮に泊まります。毎日、チェックイン業務が終わるのは午後6時ごろ。夕日を見ると、ほっとします。

ホテルから見える夕日(本人提供)

「赤いバラ50本用意して」というオーダー

印象に残っているお客様ですか? 台湾だったか、中国だったか……。アジア圏の20代の男性から事前にメールで、「プロポーズをしたいから赤いバラ50本を用意しておいてほしい」という依頼がありました。富山市内の花屋さんに注文し、持ってきてもらいました。プロポーズは成功したそうです。片言の日本語で「ありがとう」と言われ、こちらもホッとしました。うれしかったですね。

大変なのは、体調が悪くなったお客様のフォローです。ホテルのスタッフがワゴン車に乗せて立山駅まで運んだり、山岳警備隊に依頼して下山したりするケースも。最終的にはどうするか上司に判断を仰ぎますが、「せっかく来たのに」という声を聞くと、残念に思うこともあります。元気で立山の自然を楽しんでいただきたいですね。

外国語専門学校時代の友人には、海外の大学に進学したり、ワーキングホリデーで海外に住んでいたりする人が多く、今も刺激を受ける存在です。彼らは現地にいるからこそ学ぶことがあり、英語のスキルもアップしている。話しているとつい、「自分も20代のうちにもう一度、海外に行きたい」と考えてしまいます。「いろんな国を見てみたい」「もっと英語を勉強したい」と思います。

30歳までにもう一度、海外に行きたい

英文科を受験したときの気持ちは「英語がしゃべれるとかっこいいから」だったのですが、ある程度、習得しても「もっと話せるようになりたい」と思います。また、敬語や丁寧語がストレスにならない英語のコミュニケーションはいいなあと感じます。海外で店員さんの接客を受けると、できない時には「ノー」と言われます。もちろん、できることは喜んでやってもらえる。この感じ、海外ならではの感覚だと思います。相手との距離が近いのです。

一方で、結婚も30歳ぐらいまでにはしたいと思う。結婚して子どもができたら、海外へ行くのは難しいので、「30歳までに、もう一度」と思います。

標高2,450mの室堂から見える星空(本人提供)

海外事業を担当する部署もあるので、そこに興味や魅力も感じますが、今はお客様の笑顔を見るのが何よりの幸せです。フロント業務を頑張り、日本一高い場所にあるホテルにやってくるいろんな国の人に、どれだけ立山の魅力を伝えられるかが、私のミッションかと思います。

しかし、あっという間に30歳になってしまいそうですね。

富山県立山町の立山黒部アルペンルート

北陸に拠点を置く新聞社でスポーツ、教育・研究・医療などの分野を担当し2012年に退社。現在はフリーランスの記者として雑誌・書籍などに執筆。