Beyond Gender#16

なぜ人は、差別をしてしまうのか。映画「山女」に思う偏見や無理解

#MeToo後の社会の多様性やジェンダー平等について2021年から約1年、米ロサンゼルスでの研究を終えて、日本に帰国したのは昨年の7月。そして今、私は岩手県盛岡市にいます。5月に、盛岡総局へ異動になったのです。これからは、米国で得た視点を大事にしつつ、地方から東京、日本社会を見つめていこうと思っています。
今も昔も分断される女性たち 上映企画「日本の女性映画人」から考える 映画字幕「~だわ」「~だぜ」過剰なジェンダー表現のわけ LAで学び考えた 

「遠野物語」に着想

今回取り上げるのは、岩手県が舞台の「遠野物語」からインスピレーションを受けた映画「山女」(やまおんな)です。遠野物語は、柳田国男が遠野地方に昔から伝わる逸話や伝承を集めて、1910年(明治43年)に刊行したもの。遠野は岩手県の内陸部にあり、四方を山に囲まれた盆地です。

“国内の山村にして遠野よりさらに物深き所にはまた無数の山神山人の伝説あるべし(「遠野物語」より)”

悪戯(いたずら)とキュウリが大好きな河童、見た者に幸運をもたらす座敷わらしなど、遠野物語には数多くの異形の者、いわゆる妖怪が登場します。自然と異世界、人間が住む空間とのボーダーラインがあいまいで、人間も、そうでない者も、獣も共に暮らす……。滑稽でときに残酷で、悲しくて面白い物語は、時代を超えて人々を魅了しています。

その遠野物語に着想を得た映画「山女」が、6月30日から全国で順次公開されます。
舞台は18世紀後半、大飢饉(ききん)にあえぐ東北の寒村です。先々代が火事を起こしたという理由で、「穢(けが)れ」として村人から苛烈(かれつ)な差別を受け続ける一家に生まれた少女・凜(山田杏奈)が主人公です。

©YAMAONNA FILM COMMITTEE

女というだけで差別され、さらに身分によっても差別される時代。

凜は生まれたときから、過酷な運命を背負っていました。凜の支えは、盗人の女神様が宿ると言われる早池峰山(はやちねさん)。山を眺めて、つらい日々の心の支えにしていました。
ある日、父の伊兵衛(永瀬正敏)が空腹のあまり、米を盗んでしまいます。凜は、幼い弟や父をかばうために罪をかぶり、村から出て行きます。向かったのは、早池峰山。「決して立ち入ってはいけない」と言い伝えられてきた山奥に向かうと――。

米国で感じた二重の差別

福永壮志監督は、北海道伊達市出身の40歳。ニューヨークで映画を学び、2015年、「リベリアの白い血」で長編映画デビューします。リベリアのゴム農園で働いていた男性が、子どものためによりよい賃金を求めて、ニューヨークに移民として渡る物語です。2作目の「アイヌモシリ」は、北海道阿寒湖畔でアイヌ文化に触れながら育ってきた少年が主人公でした。リベリアとニューヨーク、アイヌと現代の日本社会。2つの世界や文化の間で引き裂かれ、心揺れ動く人々を実に巧みに描きました。

今回、なぜ18世紀の東北を舞台にしたのか。
監督は「アイヌモシリ」を撮って、自分が生まれ育った日本により深く関心を持ち、日本各地の民話や伝承を調べたそうです。そこで、遠野物語に出合いました。

「実在した人物たちが、『自分はこんな体験をした』『あの家のあの人がこうなった』と語っていて、すごくリアルだった。妖怪など得体の知れないものが、あたり前のように存在している世界で生活する人たちの姿が面白くて。民衆の滑稽さ、たくましさ、自然への畏怖(いふ)を感じました」

監督は20代前半で日本を出ました。その理由を「日本が窮屈だったから」と言います。「こうすべきだ、と圧力を持って押しつけられる『普通』が息苦しかったんです」。ですが、「違う価値観に触れたい」と思って移り住んだ米国で、「アジア人」として、様々な差別を受けることになりました。

日本で、日本国籍を持った男性として暮らしていると、差別される側を経験することはあまりありません。ですが、長年米国で暮らす福永監督は、アジア人であるがゆえに差別を受けたことで、女性への差別、日本のジェンダー格差にも関心を持つようになり、以来心を痛めています。

女性を主人公にすると決めたときから、監督は「男性である自分ではどうしても至らないところがある」と考えたそう。そこで、NHKの朝の連続テレビ小説「らんまん」を手がける長田育恵さんが脚本に加わりました。

©YAMAONNA FILM COMMITTEE

私も米国でアジア人女性であるがゆえに、差別のまなざしを感じました。米国では当時、#MeTooを経て、 男性から女性への性暴力やDVなどはかなりクローズアップされていました。加えて、同じ女性であっても、白人と有色人女性の間にある差別というのも問題になっていました。 ジョージ・フロイド事件に端を発したアフリカ系アメリカ人に対する暴力や構造的な人種差別の撤廃を訴える「Black Lives Matter」や、コロナ禍でのアジア系米国人への差別に対する抗議運動「Stop Asian Hate」も大きくとりあげられていました。ですが「差別される側」もみなが同じではありません。同じ人種間でも男性から女性への暴力や差別があり、さらに同じ女性であっても、白人女性から有色人女性への差別もあります。ここの記事をまとめながら、私は「山女」のことと同時に、米国で暮らしていたときに耳にした様々な議論を思い出しました。

なぜ人は、差別をしてしまうのか。他人を見下し、見下された人がさらに弱い立場を見下すような連鎖がおきるのか……。

差別する人たちは幸せなのか?

「山女」では、小さな村のしがらみにとらわれた村人たちが登場します。
飢餓と冷害にあえぐ、小さな村でも差別をする側、される側がいます。
凜と同じ年頃の春(三浦透子)は村の有力者の娘です。小さな村の中では「恵まれている」側に属する春は、凜を見下しています。ですが春が思いを寄せる泰造(二ノ宮隆太郎)は、凜のことをひそかに思っていました。差別されている側の凜の一家内でも、さらに差別がありました。父親・伊兵衛は、息子を大事にしますが、娘の凛にはつらく当たってこき使います。同じ女性同士でも、身分の違いで差別をしたり、同じ家族間であっても女だからと娘を見下したり――。

ですが、監督は「可哀想な女性をいじめる村人たち」という単純な構造にはしませんでした。小さな村の中で「持っている側」とされる人たち、つまり差別をする側の人たちも、誰も幸せそうではありません。春の不器用さや伊兵衛の苦悩など、凜に厳しく接する側の人物が抱える葛藤を、彼ら彼女らがふとみせる表情やしぐさで表したのです。

監督が映画を作る動機の一つが、「社会を良くして、差別をなくしたい」という思いだそうです。
「たとえ主人公がとても可哀想であっても、加害者側を『魔物』にすると、差別の構造にまでは目が向かなくなる。人間の様々な側面を描くことで、現代に通じる物語にしたかった」

映画の中で、山奥に逃げ込んだ凜は、山男(森山未来)と出会います。「普通」とされる人たちに追われた凜を救ってくれたのが、「普通でない」と村人から恐れられていた山男でした。人々が避けていた山で、凜は初めて生きる実感を得られたのです。凜と山男は言葉を交わさずとも、心を通わせていきます。

5歳から様々なジャンルのダンスを学んできた森山未来は、一言もセリフがないにも関わらず、体の動きだけで、神聖さと野蛮さを兼ね備えた山男を演じました。凜を演じた主演の山田杏奈のたたずまいと強いまなざしも、とても印象に残ります。2人の平穏な日々は長く続かず、凜は過酷な運命の中に再び放り投げられます。ですが、凜は差別に屈することはやめます。「わたしの人生は、誰にも奪わせない」と決意を固めて……。

©YAMAONNA FILM COMMITTEE

ぜひ映画館の大スクリーンで、凜の運命を見届けてください。

ちなみに、凜が山男と出会った森は、山形県戸沢村にある「幻想の森」で撮影されました。この森には、樹齢千年超、幹周り直径15mを超える大木があります。根元から複数に分かれた枝は、光りを求めるように天に向かって長く伸びています。山の緑が目に染みるような映像美も堪能できる映画となっています。

科学が発達した現代でも、コロナ禍の猛威を前に人間はなすすべもありませんでした。人間にはどうしようもならない自然の力を思い知ることになりました。自然に畏怖をもって生きた人々が登場する「遠野物語」から着想を得た映画「山女」は、時代や空間を超えて、コロナ禍を経験した我々の心に大切なものを届けてくれます。

「遠野物語」には、「神隠し」にあうなどして、ある日突然姿を消す女性や、長年山の中で暮らしていた老女の話がでてきます。なぜ女性たちは山に消えたのか。諸説ありますが、今よりずっと女性の逃げ場所が少なかった時代、閉鎖的な環境の中で、「山に逃げる」というのは、当時の女性たちに残された数少ない選択肢であり、生きる術だったのかもしれません。

江戸時代にも現代にも、凜のように周りの無理解や偏見と闘い、自分の信念を貫こうとする女性たちはいます。私は今後、岩手を拠点に、そんな女性たちにエールを送るような記事を書いていきたいと思っています。

映画「山女」は、6月30日(金)からユーロスペース、シネスイッチ銀座で、7月1日(土)から新宿K’s cinemaほか全国順次公開されます。

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Beyond Genderは原則、月1回更新の予定です。

今も昔も分断される女性たち 上映企画「日本の女性映画人」から考える 映画字幕「~だわ」「~だぜ」過剰なジェンダー表現のわけ LAで学び考えた 
朝日新聞記者。#MeToo運動の最中に、各国の映画祭を取材し、映画業界のジェンダー問題への関心を高める。