Beyond Gender#14

今も昔も分断される女性たち 上映企画「日本の女性映画人」から考える

#MeToo後の社会の多様性やジェンダー平等について2021年から約1年、休職して米ロサンゼルスで研究した朝日新聞の伊藤恵里奈記者による連載・Beyond Gender。今回は日本映画における女性の作り手について取り上げます。そもそも女性映画人については作品クレジットなどでも記述が少なく、見えて来たのは約90年も前の女性映画人のボヤキが、現代女性にもそのまま通じる問題であるという、まるでホラーな状況……。<トップ画像は、鈴木紀子が原作・脚本を勤めた無声映画「お父さんの歌時計」(1937年)=国立映画アーカイブ提供>
宴のあと… 現地で振り返ったアカデミー賞、「EEAAO」が7冠、米映画界に変化の胎動も

「現在では女であるという理由の珍しさからでなく、実力によって価値が決められていく時代にもう入っている」(鈴木紀子=当時27歳)

「わたしたちは職場にいる間、男であるとか女であるとか自分の性別を意識するようなことは全くまれである」(深町松枝=当時29歳)

仕事にかける意気込みや熱意が伝わってくる文章です。「私にもこんな風に男女平等を信じていた時期があったな……」などと思った人もいるかもしれません。私もその一人です。今、SNSに投稿されても違和感がない内容ですが、実はこの文章は87年も前に書かれたものなのです。掲載されたのは、1936年8月号の「キネマ週報」。軍事クーデター「二・二六事件」がおきて、政府が一気に戦時体制に傾いた年とはいえ、大正デモクラシーから続く女性の権利向上の運動はまだ続いていました。

私がこの文章を知ったのは、今年4月9日に東京都内で開かれた「映像女性学の会」の講座でした。登壇したのは、国立映画アーカイブ(東京・京橋)の特定研究員の森宗厚子さん。森宗さんは今年の2月から3月末にかけての上映企画「日本の女性映画人(1)」に構想段階から関わりました。国立映画アーカイブは、日本で唯一の国の映画機関。「これまで、女性の映画人については十分な議論がなかった」と振り返ります。

そうした状況を変えるきっかけとなったのは、2021年、この国立映画アーカイブが実施した1980年代の日本映画特集でした。上映全44作品中に女性監督の映画がゼロだったことで、SNSで批判の声があがったのです。「80年代に公開された全映画768本のうち、そもそも女性監督の作品は6本。取り上げるべき映画がなかったので選ばなかっただけなのですが、想定外の批判をうけて、私たちも意識を改めました」と、森宗さん。日本の映画史に、映画の作り手として女性の存在がほとんど記されていないのは、あたり前のことなのか? ジェンダーの視点で映画史を見つめ直す時期にきていたのです。

国立映画アーカイブの上映企画「日本の女性映画人(1)」

歴史の中で不在だった女性映画人たち

世の中の性差別を問い直す契機となった#MeToo運動。私が1年あまり滞在した米ロサンゼルスでも、ハリウッドで男性中心の視点で語られてきた映画史を問い直す動きが広がっていました。日本でも#MeTooの影響は広がり、2020年には、国立歴史民俗博物館で、「性差(ジェンダー)の日本史」展が開催されました。日本史に記されることの少なかった女性たちの姿を古代から丹念に掘り起こし、為政者が人々をうまく支配するために男女の区分を利用した歴史を浮かび上がらせ、大きな反響を呼びました。

そういった動きをうけて、国立映画アーカイブでも、「監督(=男性)中心の日本映画史を再考して、埋もれていた人物を幅広く発掘する」という方針転換がなされました。まず始めたのは、戦前から現代まで各分野の女性スタッフを調べること。「先行研究がないため、手探り状態でした。著名な映画評論家の著書にも、映画人名事典の類いにも、女性スタッフの名前はほとんどなかった」と森宗さんは話します。

映画をテーマにした本は、この世に山ほど存在します。そして女優を論じた本はたくさんあるけれども、映画の作り手として女性たちが果たしてきた役割にフォーカスした本や研究はほとんどありませんでした。調べてみると、戦前・戦後にかけて様々な分野で活躍した200人以上の女性の名前が挙がったそうです。これらをシリーズ化して綿密に取り上げることにし、今年2月からの初回は、戦前から60年代までに活躍した女性たちを特集しました。

ロサンゼルスにあるマーガレット・ヘーリック図書館では、映画の誕生時から多くの女性が映画作りに関わってきたことを示す資料を多数集めている

戦前の1920~30年代はサイレント映画の全盛期。冒頭に文章を紹介した鈴木紀子(1909~85)など、複数の女性たちが様々なジャンルで脚本を書いていました。今回、小特集で「鈴木紀子と戦前の女性脚本家たち」が組まれ、娘と病身の父親の絆を描いた「お父さんの歌時計」(1937)や、鈴木の代表作で、戦中の社会の空気が伝わる「チョコレートと兵隊」(1938)など、鈴木が脚本を書いた映画が上映されました。

鈴木が冒頭の文章を「キネマ週報」に寄せたのは、日活の脚本部で働き始めて3年経った頃。当時27歳だった鈴木は、「ある高名な女流作家が、シナリオの技術なんてものより、女であるがゆえに撮影所内の雑用をこなすのに手いっぱいと愚痴った」として、「私たちシナリオライターは自身の勉強だけで手一杯だ。遊泳術に浮身をやつしているヒマなど残念ながら無い」とあきれています。まるで「チャラチャラと男にこびを売る女性の先輩のせいで、私たちは迷惑している」とでも言いたいようです。

森宗さんはこの先輩女性を、女性脚本家の先駆けである水島あやめ(1903~1990)ではないかと推測します。「水島は松竹蒲田撮影所長の方針で、『女流脚本家』として華々しく売り出され、かつ所長の秘書のような立場で撮影所の雑用もしていたようです」。水島の同時期に入った男性脚本家たちには、そうした雑用は与えられなかったそうです。ここで私が考えたのは、「男女の区別なく働きたい」と考えた鈴木紀子が怒るべき相手は、果たして「男社会でうまくやっている」ようにみえた水島だったのでしょうか。

脚本家の鈴木紀子=能美ふるさとミュージアム提供

鈴木のこの文章からさかのぼること4年前の1932年。大阪朝日新聞の連載「職業を語る新女性」で、水島は「女シナリオライターなんて本当にため息多き存在」と話していました。水島は「よそ目に呑気にそのもののようにみえても、頭の中はいつもシナリオのことでいっぱい」と言い、さらに「私は女でしょう。他の脚本部の人のように監督さんや俳優たちと一緒にお酒を飲んで遊んでいるうちに『この次の作品には』とお互いの意思を疎通させることも出来ないんですもの。とても損ですわ」とまで言っていました。

今も昔も「女はつらいよ」

育児や家事を担う必要のない男同士が集まり、そのつながりで何もかもが決まっている……。今の世の中でもよくある話です。水島はこの連載当時、映画界に入ってすでに7年が過ぎていました。「女性らしさ」を売りにした脚本を手がけ、会社の上層部の思惑通りに世間で注目される状況に、どこかでやるせなさを感じていたのではないでしょうか。森宗さんによると、水島が松竹で働いていたとき、鈴木は松竹の脚本研究所二期生として学んでいたそうです。水島と鈴木は、言葉を交わす機会はあったのでしょうか。

社の方針で「女流脚本家」として注目を浴び続けた水島と、男性の同僚と競合しながら多くの脚本を書いた鈴木とでは、「映画界で女性が働くのはいかに厳しく孤独なことか」という悩みをシェアできなかったのでしょうか……。私はそんな思いを巡らせずにいられませんでした。女性同士が連帯より、分断させられる構造になることは、今も珍しくありません。誰を登用するかを選ぶ側はあくまでも男性側。その「抜擢」を巡ってあつれきが生じるのは、女性の活躍や登用が盛んに叫ばれる現代にも通じる問題でしょう。

水島あやめは1935年に、鈴木紀子は1945年に映画界を去り、それぞれ別の分野で活躍しました。もし彼女たちの職場に、女性の同僚や上司が多く存在していたら、水島や鈴木ははたして同じ選択をしていたでしょうか。くしくも鈴木は「キネマ週報」に寄せた文章を、「同じ会社に女性の監督がせめて2人いたら、女性のシナリオライターが3人くらいになり、女性のプロデューサーも、女性の所長もいて、そしたら……」と締めくくっていたのです。

1932年の大阪朝日新聞の連載「職業を語る新女性」に登場した「スクリプトガール」の坂井羊子さん(左)と脚本家の水島あやめさん(右)の記事

ちなみにこの大阪朝日新聞の「職業を語る新女性」連載の第1回は、「女監督の卵」として、松竹蒲田にスクリプト・ガールとして入社した坂井羊子という女性が飾っています。森宗さんの調査によると、当時、松竹では、スクリプト・ガールの条件として「助監督のような仕事で、脚本に理解を持つ近代的女性」をあげ、「好成績ならば将来助監督にしてやってもよい」と募集していたそうです。ですが、坂井は「助監督にさえなれそうにない。なれたとしても人的関係の複雑な映画界では……」と弱気な様子でした。坂井の名前はその当時の映画に見当たらないそうです。彼女も希望を抱いて映画界に入ったものの、悩んだ末に去った一人なのでしょうか。

この上映企画では、戦前からあった「スクリプター」という職種にも着目。スクリプターは、撮影前の各部署の調整や監督の隣で台本を映像化するプロセスの記録などと、映画制作に総合的に関われる仕事です。女の仕事とされ、定期的に採用があったため、スクリプターから入社し、編集や脚本、記録映画の監督などになった女性も少なくありません。たとえば戦前、東宝でスクリプターをした石山一枝は、戦後、女性の管理職登用を巡る社内騒動を描いた「新しい歌声」(1950年)の脚本を書き、のちに「かんけまり」という名で監督になり、占領下の沖縄での祖国復帰運動などを追っています。

シスターフッドのバトンをつなぐ

上映企画「日本の女性映画人(1)」では、映画界に確かにいた女性たちの存在を、失われたジグソーパズルのピースを探すように埋めて、映画史を再考しました。この企画で解き明かされた女性たちの物語自体が、まるで映画のようです。そういえば、今年3月に公開された「オマージュ」という韓国映画。これは、まさに現代に生きるある中年の女性監督の物語で、1960年代に活動した女性監督がたった一本だけ残した映画を修復するプロジェクトを通して、自分の人生と向き合い、前に進むストーリーでした。

厚木たかが脚本を書いた映画「わたし達はこんなに働いてゐる」(1945年)は、軍服作りをする少女たちを記録した=国立映画アーカイブ提供

女性が仕事で直面する問題は時代によって種類や程度に違いはあれど、仕事にかける情熱は今も昔も変わらないはず。映画業界に限らず、あらゆる分野で、私たちの前を歩いた女性たちがいます。彼女たちの無念や孤独といった思いと共にその志を知ることは、「自分が今歩いている道は、無数の先輩女性たちが切り開き、踏み固めた道なのだ」と力をもらい、シスターフッドのバトンを次の世代につなぐことになるのではと考えます。映画界に限らず、あらゆる業界で、そうしたバトンがつながることを願ってやみません。

「日本の女性映画人」の第2部は来年2月ごろにおこなわれる予定だそうです。次はどんな内容になるのでしょうか。「1990年代は女性の監督層が分厚いのでできれば単独でやりたい。実験映画や成人映画をどう扱うべきか……」と考え込む森宗さん。ぜひ多くの人に足を運んでいただき、知られざる女性映画人たちの足跡と共に作品を楽しんでもらいたいです。

宴のあと… 現地で振り返ったアカデミー賞、「EEAAO」が7冠、米映画界に変化の胎動も
朝日新聞記者。#MeToo運動の最中に、各国の映画祭を取材し、映画業界のジェンダー問題への関心を高める。