●本という贅沢#158『現代思想入門』

さとゆみ#158 複雑なことを複雑なまま理解できる力がほしい。『現代思想入門』

コラム「本という贅沢」。今回は混沌とする現代社会において、世界や思考の仕組みを考えるきっかけとなる1冊を書籍ライターの佐藤友美(さとゆみ)さんが取り上げます。
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●本という贅沢#158『現代思想入門』(千葉雅也/講談社現代新書)

つい先日、悔しくて泣いた。
悔しくて泣くなんて、学生かよと思いながら、泣いた。

それは、とあるエッセイで、「親戚がウクライナに住むロシア人の女性」の話を書いたときのことだった。
祖国の軍隊が、自分の親戚の住む街を今まさに爆撃している。彼女の口から語られる話を聞いて私は戦慄したし、戦争とはこういうことかと初めてリアリティをもって感じた。私は彼女に「この話を書いてもいいか」と尋ね、彼女は「ぜひ書いてください」と言ってくれた。

どちらが悪でどちらが善なのか。
世界をそんな単純な二項対立に分断したくないという気概で書いたエッセイは、しかし、書く前に思い描いていたような文章にはならなかった。
なんというか、もっとドラマティックに書けると思っていたのだ。でも、私が書けたのは、ドラマというよりは断片の物語だった。それは、その場にそっと置いてきた、というような佇まいの文章で(それはそれで、今発表するにはある種の価値があるとは思ったけれど)、大きなうねりのある物語ではなかった。

せっかく大事な話を預かったのに、こんな淡々とした文章になってしまった。
この文章は、世界をほんの少しでも温かくするだろうか。
私以外の人が書いたら、もっと、人の心に届く文章になったかもしれない。
そう思ったら、悔しくて涙が出た。

もっとエモく書けばよかったのか。
いや、そんな単純な話にしてはいけないと決めて書き始めたのではないか。
ドラマティックに演出するのではなく、かといって、事実を淡々と書き落とすだけではなく。この複雑な話をその複雑さを内包したまま多くの人に届けるにはどうしたらいいのか。

悶々と考えていたとき、Twitterで流れてきた言葉に撃ち抜かれた。この『現代思想入門』の一節をまとめたものだった。

「現代思想を学ぶと、複雑なことを単純化しないで考えられるようになる」

「世の中には、単純化したら台無しになってしまうリアリティがある」

あ、私がいま、知りたいのは、これかもしれない。
この武器を手に入れたら、私はもっと、この世界の複雑さを理解して書けるようになるかもしれない。
そう思って、ページを開いた。

はたして、もう、素晴らしい本だった。
あとから知ったけれど、発売直後から、めちゃくちゃに話題になっている本だという。最初から最後までドキドキしながら、ひとつずつ謎が解かれていくのを、サスペンスドラマを見るように読んだ。

いや、こう書くと、何やらちょっとわかった風だけれど、そもそもこの本は「現代思想の入門書の入門書」という位置づけだ。だから、わかるための方法がちょっとだけわかった、というくらい。
千葉さんの本を片手に、これから、ここに紹介されている本を読んでいけば、その先に、私が知りたいことがどうやらあるようだ、ということがわかった。

「はじめに」(「はじめに」が長い本です)の後半に、現代の「秩序の維持や、安心・安全の確保」が最優先の関心ごとになる、つまり「みんなきちんとしなきゃ」という監視体制は、実は戦時中のファシズムに似ているという指摘にはドキっとさせられる。

私が直感的に、この本を読まなきゃと感じたのは、ここにつながっていたからなのか、と思う。現代思想なるものが取り上げている課題が、今の私(たち)の課題に直結しているから。だから、この本を読まなきゃと思ったのだろう。

アイデンティティと差異。
秩序と逸脱。
異なるものを内包しながら、私たちは、折り合いをつけながら生きていかなくてはならない。

千葉さんは「おわりに」で、

本書は、「こうでなければならない」という枠から外れていくエネルギーを自分に感じ、それゆえこの世界において孤独を感じている人たちに、それを芸術的に展開してみようと、励ますために書かれたのでしょう。

と、綴っている。

その言葉のとおり

私は
ものすごく
励まされた。

次に、私がこの世界について書くことがあったら、また違った書き方ができるようになりたい。悔しくて泣いてる場合じゃない。この世界の仕組みを、私たちの思考の仕組みを、もっと知りたい。

著者の千葉さんがこの本を校了したとき、ロシアはまだウクライナに侵攻していなかったはずだ。でも、そのあとに起こったできごとは、千葉さんがこの本で危惧した未来を、なぞっているようにも思える。

読んで良かったし、今で良かったし、また読むし、人にも勧めるし、ここから関連本を粛々と読みたいと思う。(とくに『ライティングの哲学』は、この原稿を納品したらすぐに読むと思って、もう購入した)

というわけで、まずは、「はじめに」だけでも。
ここを読んで、ドキっとした人や、ドキドキした人は多分、得難い宝を得られると思います。

 

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さとゆみ#157 忘れたかった「加害」が白日の元にさらされる。『春のこわいもの』が炙り出す人間の罪
ライター・コラムニストとして活動。ファッション、ビューティからビジネスまで幅広いジャンルを担当する。自著に『女の運命は髪で変わる』『髪のこと、これで、ぜんぶ。』『書く仕事がしたい』など。