「孫の顔を見せないと……」母親の期待に応えることが裏目に。40代女性が気づいたこととは
「毒親」という言葉が人口に膾炙(かいしゃ)し、親に関する悩みや葛藤を言葉にする人が増えてきた。たとえ親が「毒親」でなくとも、親子関係に悩まされる人は少なくない。橋田久美子さん(仮名・40代)もそのひとりだ。
久美子さんはこれまでの人生で母親からの期待に応えようと努力してきた。“母に孫の顔を見せてあげたい”“母が納得するような相手と結婚したい”……そうした思いを抱え、母の意向を無視できずに生きてきた。
しかし結婚には至らず、子どもを産むことも叶わなかった。今になって振り返ると、母の希望に寄り添おうとしてきたことが裏目に出たのではないかと感じているという。
「母親に孫の顔を見せないと」
久美子さんは過去に数々の“ハイスぺ”男性たちと交際してきた。交際遍歴を聞いていると、次から次へと一流企業の名前が出てきて圧倒されてしまう。40代になっても容色の衰えない彼女は、若いころさぞモテたのだろう。大学生のときには一度会っただけの社会人からプロポーズされたこともあるという。しかし相手がひと回り以上年上だったうえ、母親からも難色を示されたため、断ってしまった。
その後、もっとも結婚を意識したのは、30代のときだった。専門職として働き始め、5年間遠距離恋愛をしていた恋人と同棲を始めたのだ。
「同棲していた相手とはトータルで8年間付き合っていました。同棲までしているんだし、きっと結婚してくれるだろうと思っていたんです。母親も孫の顔が見たくて仕方なかったようです。『卵子が老化する』とせっつかれていました。でも結局、事情があって結婚できなかったんです。
そして大学の同級生が紹介してくれた、そこそこ年収のある男性と付き合い始めたのですが、そのときは『母親が納得してくれれば何でもいい』という気持ちがありましたね。母はやはり孫を期待していて、毎日のように赤ちゃんの絵文字が入っていたメッセージが送られてきました。私も母親への対抗心があったので、『今日泊まった』といったことを報告していました。でも結局、この男性ともうまくいかなかったんです」
母親が娘の結婚に期待するのは、当たり前のことかもしれない。しかし久美子さんの話を聞いていると、母親の希望が久美子さんの人生に色濃く影を落としていることに気づく。
「同棲を解消し、その次の恋人ともうまくいかず、気づけば30代後半になっていました。自分でも子どもがほしくなってきたし、『母親に孫の顔を見せないと』という思いもありました。そんなとき、20代の頃付き合っていた男性に仕事で再会する機会があったんです。彼に『子どもがほしい』と頼み、セックスだけの関係を始めました。付き合ってもいなかったし、結婚するつもりもなかったけれど、彼はお金に余裕のある人だったので子どもが産まれたら養育費はくれるだろうと思っていたんです」
子どもを作るためだけに、20歳も年上の“元カレ”と関係を持ち始めた久美子さん。しかし結局子どもはできなかった。
「もちろんそのことは母にはいいませんでした。結局、子作りもうまくいなかなくて、諦めかけていた頃、母親が『これで最後よ』といってお見合いを持ってきました。しかし相手の男性は、好きだった女性を同僚に取られてしまったことが心の傷になっていたようです。『その子のことが忘れられない』という理由で振られてしまいました。こればかりは仕方がないのですが、母は『あなたは何の成果もあげていない』とご立腹。『なんで結婚しないんだ』といってつねられましたよ」
母親が嫌がりそうなことは避けていた
「母は、私にエリート男性と結婚して専業主婦になってほしかったみたいです」と久美子さんは話す。
「母はそれが女性の幸せだと信じていました。女性が教育を受ける意味があるとしたら、エリートの男性と結婚するため、もしくは子どもに教育を施すためという考えを持っていました。
私は大学卒業後に一生働きたいという理由で、資格試験を受ける道を選びましたが、母は『安定した職業に就けば安定した収入の男性と結婚できる』という理由で賛成してくれました」
娘本人のキャリアアップよりもエリート男性との結婚を望んでいた母親。有名大学を卒業した久美子さんに対して、「女子大に進学していれば結婚できたかもしれないのに」と嘆くこともあったという。
久美子さんは、そうした母親の望みにできる限り寄り添おうとしてきた。希望していた業界への就職を断念したのは、「私は向いていない」と思ったことも原因だが、母が強い嫌悪感を示したことも無関係ではない。交際相手についても、母親が認めてくれるような相手を無自覚に選んでいたと感じる。
「今振り返ってみると、母親の否定しそうな選択を無意識に避けていたのだと思います。職業にしろ、恋人にしろ……。母が亡くなったあとは『母が許してくれるかどうか』を気にしなくてよくなったこともあり、あまり好きではなかった会社の仕事を辞めて、やりたかった仕事をし始めました。そのつながりで現在のパートナーとも出会いました。
本当は、もっとはっきりいえば良かったんです。『私はお母さんが望んでいるのとは違う道に進みたい。それも幸せなんだ』って。でもそれをいったら母親の人生を否定してしまうことになるんじゃないかと思っていい出せませんでした」
かわいそうなお母さん
「かわいそうなんですよ」。母親の人生について語るとき、久美子さんはそう繰り返す。「本当にかわいそうなんです。母は人生を選べなかったんです」。
久美子さんの母は1941年北陸生まれ。地元の名家に生まれ、金銭的には苦労しなかったものの、進路や結婚相手を自由に選べたわけではなかった。
「母は、祖父から『地元の国立大学に行って学校の先生になるか、銀行でOLになってお見合いで結婚するかのどちらかだ』といわれたそうです。今のように東京の大学に進学するといった選択肢はなかったんです。結局、母は銀行で働くことを選びました。地元で教師になったら、同じく地元の教師と結婚することになる。そうなったら、一生東京に出れないと思ったのだそうです」
1950年代の大学進学率は男女ともに15%以下。(文部科学省「学校基本調査」)地方から東京の大学に進学するどころか、大学に進学することすら一般的ではなかった時代だ。
久美子さんの母は勉強が得意で地元の進学校を卒業しているが、大学に行くことは叶わなかった。そのため「頭がいいのに、それを活かした人生を送ることができない」という不満を抱えていたという。
「母が高校を卒業して銀行で働いていたとき、妹の結婚が決まったんです。当時は、姉妹が上から順番に結婚しないといけないので、母は急遽お見合いで結婚することになりました。
新聞社や金融機関に勤めている男性と結婚するという話も浮上したようなんですが、祖父が『聞屋(ぶんや)と株屋はだめだ』といって断ったんです。それで母は父と結婚することになったんですね」
進路や結婚相手を自由に選べなかった久美子さんの母親。「専業主婦こそ幸せ」と信じていたのは、そうするしかなかった自身の人生を肯定するためだったのかもしれない。
「私は『エリート男性と結婚して主婦になるのが幸せ』という母の考えにできるだけ寄り添おうとしてきましたが、本当の自分にウソをついてもうまくいかない。『母親なんて知らない』と開き直っていれば、かえって母に孫の顔を見せてあげられたかもしれません」
現在は、専門職として働く久美子さん。新しいパートナーにも出会い、現在は結婚を目指している。あれだけ欲しかった子どもも、母親が亡くなった途端、どうでもよくなったという。
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