本という贅沢114 『すべて忘れてしまうから』(燃え殻/扶桑社)

燃え殻さんの過去にアクセスするとき、私たちの記憶の扉も開く

毎週水曜日にお送りする、コラム「本という贅沢」。時間を戻したい、過去を消したい――。誰しも一度は考えたことがあるでしょう。そんなみなさんに向け今回は過去を捉え直すことができる1冊を、書籍ライターの佐藤友美(さとゆみ)さんが紹介します。

●本という贅沢114 『すべて忘れてしまうから』(燃え殻/扶桑社)

『すべて忘れてしまうから』(燃え殻/扶桑社)

先日、仕事とプラベートの真ん中よりちょっと仕事寄りの席で、盛大な、やらかしをした。

ん? あ、やばい? と思ったときは、潮干狩りもここまでではというくらい、場が引き切っていた。
この数ヶ月、コロナの自粛下であまりに気の合う人とばかり話をしてきたから、自分のコミュニケーション能力の欠如をすっかり忘れていた。
お開きのあと、主催者の方から「今後は、ああいうの、勘弁してくださいよ〜」とやんわりお叱りを受けるなど。

時間を巻き戻せるならやり直したい。
いやむしろ、いっそこのまま消えたい。
言葉にすれば「自己嫌悪」というやつで、泥みたいな数日を過ごしていました。

しかしそれでも、締め切りはやってくる。読まねば。そして書かねば。
家にある本で、あまり心をえぐられなさそうなやつを、と脳内検索したところ、予約で買ったのにまだ開いていない本を思い出した。

燃え殻さんのエッセイ。『すべて忘れてしまうから』。
その日は、ベッドから起き上がる気力も、部屋の電気をつける気力も、徒歩3歩の本棚から本を出す気力もなかった。手元のケータイでそのままKindle版を購入する。

なかば、締め切りへの義務感だけで読み始めた。
読み始めた本なのだけれど……。

はじめにと、最初の2本のエッセイを読んだところで、泥のようにねっとりまとわりついていた「現実時間」の自己嫌悪が、日の元に照らし出され、ゆっくり渇いていくのがわかった。
それは、書籍を読んでいてはじめて味わう感覚だった。

ひょっとしたら、これが「文章に、救われている」という感覚なのかもしれない。

ベッドの上で液晶をスクロールしていくうちに、心が自然と時空を超え始めた。深夜2時に読み始め、朝の7時に読み終わった。
いや、実際に文章を読んでいた時間はその半分だったと思う。残りの半分、私は自分の過去にアクセスしていた。燃え殻さんが思い出す過去の風景がトリガーとなって、私は、7歳の、14歳の、24歳の……そして、つい先週の私とも、もう一度会っていた。
本を読み終える頃には、液状化したぐじゃぐじゃの心持ちが、ぽろぽろと乾燥した土埃のようになっていた。

本を開いていた5時間よりも、長い、長い時間が、経っていたと思う。

燃え殻さんのエッセイは、
①現実で何かが起こり
②その現実から想起された過去に一度トリップし
③その過去を“生き直し”て
④ふたたび現実に戻ってくる
という構成で描かれているものが多い。

“生き直す”と書いたのは、その他愛もない過去や、不思議な過去を、「現在の自分」が引き出すとき、
そのできごとを、燃え殻さんがもう一度体験し直して、今の人生の中に再構築されているのだろうな、ということがわかるからだ。

この、「過去は、体験し直して、再構築できる」という事実は、何重の意味でも、人を救う。

まず、

①過去は、いつでも現在から捉えるものであって、だから現在の自分がアクセスするたびに変わりうるという点で、救われる。今はひどい現実も、未来からアクセスしたら、何か違う感想を抱くかもしれないという点で救われる。

そして

②過去を生き直しすることができると、人生は、とても長くなると気づいて救われる。人生で過ごす時間の母数は、ただ生存した時間、というわけではないだろう。短く生きても長かったり、長く生きても短かったりするだろう。過去を生き直せる人は、それだけ「覚醒生存時間」が長い気がする。

さらに

③思い出して反芻すること。まして、それを書き残すことは、「実際におこったこと」を、「とても小さく解釈し直す」ことだと、私は、思っていた。書けば記憶に留まるが、書かなかったことの方は急速に忘れる。書くことの怖さはここに、ある。
それでもやはり、忘れずに残ったものが少しでもあることは幸せなのだ、と思えたことで救われた。

燃え殻さんの文章を媒介として、私は、自分の過去に何度もアクセスした。
他人の過去の記憶を引き金にして、私たちは自分自身の過去にトリップできるという事実。そしてそのトリップが、“現在の私たち”の心を癒してくれるという事実。これは、希望だ。読み手としての私だけじゃなく、書き手としての私も救ってくれる。

そこまで考えて『すべて忘れてしまうから』というタイトルが、内包しているいくつもの意味に気づく。

書かなければ、読まなければ、思い出さなかったかもしれない過去。
そんな「忘れてしまうだけの過去」を重ねて、今がある。
この先経験することもやはり忘れてしまうことの方が多いはずだ。

それでも必死に私たちは何かを経験しようとして毎日を生きている。
どうしようもなく、滑稽で愛おしい毎日だなと思う。
どうせだいたい忘れてしまうのに。

「はじめに」で、燃え殻さんはかつて大槻ケンヂさんの本を読んで救われたことを、小説家になってから直接本人に伝えたと書いていた。そしてそこで、思いもよらない言葉をかけられたと。

私もこの先いつか、燃え殻さんにお会いすることがあったら、「あの本のおかげで、浮上したんです。めっちゃ書きたいと思うようになったんですよ」と、伝えたいと思う。

いま、めちゃくちゃ書きたい。書いて残しておきたいことが、いっぱいあった気がする。
書きたくて書きたくて吐きそうになっている気持ちをのどもとにおさえつけて、ひとまず、この書評コラムを先に書きました。

いまから、ちょっと、いってきます。

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というわけで、紙の本と電子書籍と両方買いました。
元気なときなら、紙の書籍で素敵な装丁とイラストとともに味わうのがいいと思う。
弱っているときは、丑三つ時に真っ暗な部屋で読むとトリップしやすいかもしれない。(電子でもイラストは堪能できます)。

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それではまた来週水曜日に。

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佐藤友美さんのコラム「本という贅沢」のバックナンバーはこちらです。

・恋愛で自分を見失うタイプの皆さん。救世の書がココにありましたよ!(アミール・レイバン、レイチェル・ヘラー/プレジデント社/『異性の心を上手に透視する方法』)・デブには幸せデブと不幸デブがある。不幸なデブはここに全員集合整列敬礼!(テキーラ村上/KADOKAWA/『痩せない豚は幻想を捨てろ』)
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ライター・コラムニストとして活動。ファッション、ビューティからビジネスまで幅広いジャンルを担当する。自著に『女の運命は髪で変わる』『髪のこと、これで、ぜんぶ。』『書く仕事がしたい』など。