本という贅沢113 『大人の旅じたく』(柳沢小実/マイナビ出版)

流れた予定。行けなかった旅行。今は全部ためこんで待つ。次に飛べる日まで

毎週水曜日にお送りする、コラム「本という贅沢」。今月のテーマは「大人になる夏」。 物理的にも心理的にも旅行がしにくい状況が続いています。そんな折に旅についての本をふと目にすると、どんな感情を抱くでしょうか?人生における旅の意味を改めて考えさせてくれる1冊を書籍ライターの佐藤友美(さとゆみ)さんが紹介します。

●本という贅沢113 『大人の旅じたく』(柳沢小実/マイナビ出版)

『大人の旅じたく』(柳沢小実/マイナビ出版)

コロナのことがなかったら、今ごろ友人たちとジュネーブ行きのフライトに乗っていたはずだった。

はずだった、ばかりが降り積もった今年の春夏。

息子と一緒にウミガメに再会するはずだったネグロス島。
ライター講座の生徒さんたちと行く予定だったウラジオストク。
編集さんとアジアの若手起業家を取材しまくろうと言っていたマレーシア。
ウィスキーめぐりするつもりだった台湾。
全部、流れた。

そして、友人たちと企画していた、今週のヨーロッパ。
スイス→イギリス→スコットランドと動く予定だったので、当然先月くらいから現実味は全然なくなっていて、友人たちが続々とチケットを手放すのを知っていながら、でもわたし、つい数日前までキャンセルの連絡ができなかった。

フライトをキャンセルするたびに、予定を変更するたびに、ぴしっと心のどこかに亀裂が入る。
目の粗いヤスリにかけられたみたいに、肌の表面がざらついていく。

この手から取り上げられるまで、気づいていなかったけど、
ここではないどこかをフラフラして、地に足をつけない生活をしばらくして、そして東京に戻ってくることが、私にとってはかなり大事なバランスだったのだと思う。

私にとっての旅は、よく言われる「自分探し」みたいなものではなくて、むしろ「自分無くし」のような時間だったのかもしれない。
自分が、自分が、という主語でぱんぱんになっている自分を、ゆるやかに溶かして流しだす時間。
だから、旅を取り上げられた今、身体も心も、ひからびたおからみたいにぽろぽろバラバラ散らかっている。どうしようもなく膨張して破裂した自我が醜く散らばる。

旅行のために空けていたスケジュールは、何事もなかったかのように、どんどん仕事で埋まっていくけれど、旅をする予定だった気持ちにぽっかり空いた穴は、何をつめこんでも埋まらない。

そんなことを思いながら、書店をぶらぶらしていたからか、無意識のうちに旅行本のコーナーに来ていた。
手に取ったのは、この本で、『大人の旅じたく』。
ぱらぱらめくって、とても王道で、てらいのない心地よい文章だな、と思った。
書店で立ち読みすることは滅多にないのだけれど、気づけば、周りの音がすーっと遠くなっていた。ページを追いながら小さな小さなトリップをしていたみたいだ。

むやみに旅行先の写真がないのもいい。
私は人の旅の話を聞いたり、友達が綴る旅の文章を読んだりするのが好きだけれど、写真はいつもいらないなと思う。
彼/彼女が見た風景を脳内で妄想して再現するのが好きだ。そこで想像した景色以上に美しい写真を見たことは、まだない。
旅の準備編を読んで、この半年で失った時間と景色を想う。“不在”が明確に存在していることをじっとりと感じる。

本を読みながら、東京にがんじがらめになっているじぶんを自覚したとき、ふわりと、たちくらみのような感覚があって、ちょっとよろけた。
「大丈夫ですか?」
と声をかけられ、顔をあげたら三浦春馬さんによく似た背の高い男の子が、こちらをのぞき込んでいた。
「具合、大丈夫ですか?」
と聞かれて、気づく。
信じられないのだけれど、立ち読みしながら泣いていたみたいだ。

ドラマだったら、もしくは旅先だったら、ここから何かが始まるところだけれど、これは現実だし東京だし、私も篠原涼子さんではないので、そのめちゃくちゃ綺麗な人に向かって
「ゔぁ、ぐぇ、ずみまぜん」
と、セミが踏んづけられたような声を出して、その場を辞した。

彼は、「TRANSIT」のモロッコの号を手にしていた。こんな綺麗な顔をした若い男の子は、サハラ砂漠に何を探しにいくのだろう。もしくは何を捨てにいくのだろう。

慌ててその場を離れたので、棚に戻し忘れた『大人の旅じたく』を、お会計して家にお持ち帰りした。
家に戻ってエアコンのきいた部屋のベッドの上でそれを読む。

読み終えるころには、
そうか__。悲しいのは、旅がなくなったことだけではなくて、「私は、もう二度と、そこに行かないかもしれない」という予感なのだな
と気づく。

この年齢になると、一度流れた予定が復活することはほとんどないということを、経験的にわかっている。
だからきっとギリギリまでチケットを手元におきたかったし、ギリギリまであきらめたくなかった。

だとしたら。
やることはただひとつで。このいろんな状況が落ち着いたら、なにはともあれ、流れた場所に全部行こうと思う。
それまでこの、ふつふつっとしている、いらいらとしている気持ちを抱えたまま、クラウチングスタートのポジションで待とうと、思う。

隙あらば、いつでも飛びたいと思っている。
その気持ちを保ったまま、この、2020年をじりじりと過ごそうと思う。

これもきっと、大人の旅じたくだ。

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スーツケースの中身って、本当に、その人の性格が出ますよね。この本にも、何人かの人たちの、旅に持っていく服やアイテムがのっているのだけれど、それって、どんな自己紹介よりも饒舌だなって思います。

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それではまた来週水曜日に。

年間10冊以上を担当する書籍のライターとして活動。ビジネス書から実用書まで幅広いジャンルを担当する。自著に『女の運命は髪で変わる』『道を継ぐ』など。