不要不急の外出自粛の夜に、誰かに聞いてほしい恋の話

短編小説: 自販機のモスキート、宇宙のビート板 [高橋久美子]

夜の外出を制限され、今までできなかった手の込んだ料理にチャレンジするだとか、オンライン飲みで修学旅行の夜のような気分をつかのま味わうだとか……なんとなくイベント性を持たせてやりすごしてきた数週間。でも、何の予定もない夜、ぷらっと飲みにも行けず、ふいにできた時間にしんとした部屋でひとりスマホを開いた時。空っぽの気持ちや時間をあたたかい言葉で埋めたくなる。大恋愛、初恋、失恋、少し甘酸っぱい話……。こんな夜だから読みたい恋の話。 作家、作詞家の高橋久美子さんの綴る、恋愛短編小説。ちょっぴり切なくて、でも前を向いて歩いていけそうな、初夏の夜の2人の話。

●不要不急の外出自粛の夜に、誰かに聞いてほしい恋の話#07

 

〈 自販機のモスキート、宇宙のビート板 〉

夜のキャンバスは、湿気ったクラッカーの上みたいだ。
今日を満月にしてくれた神様に小夜子は心の中でありがとうと言った。
「なんか飲む?」
大澤くんが自販機の前で立ち止まる。
「あの、でも私、部室に財布置いてきちゃった」
小夜子は小声でおまけに早口で言った。大澤くんは、黙ってズボンのポケットに手を入れる。グーを開くと、100円玉1枚と10円玉3枚が乗っかっている。続いて左側からも50円玉。最後にお尻のポケットに手を入れてまた小銭の塊を出して、それらの中から何枚かを自販機に入れた。
「何飲む?」
「すごいね、マジシャンみたい。ええと、じゃあ…」
小夜子は、もう胸のあたりがひどく苦しくって、ジュースの種類なんてちっとも頭に入らなかった。
「お、大澤くん先にどうぞ」
大澤くんは、ジャワティーのボタンを押した。多分選んでない。大講義室で見かけたとき大体いつもそれを飲んでいる気がする。他のは見えていないのだと思う。子犬が階段を駆け下りるみたいに出てきたおつりをかき集め、ズボンからもまた小銭を取り出す白い細い寂しそうな腕、その先の理想的な指先、整った短い爪。大澤くんはリズム良く夏の入り口に小銭を滑り込ませる。そして、
「どうぞ」
と言う。優しくて冷たい声で。小夜子も今度は迷わずにジャワティーを押した。缶の落ちる音が夜の静寂(しじま)にこだまして、無人島みたいだね、と言いたかったけど、
「ありがとう。後でお金返すね」
と、とてもつまらない言葉しか出なかった。
今日は、いつものモスキート音が聞こえない。鳴らない自販機もあるのだろうか、それとも大人になりかけているからだろうか。ジャワティーを飲みながら、毎日歩いている道が、初めての道のようだった。どこに行くとか言い合わないで、言葉を探すことももうやめにして、並木道を呼吸するように歩いた。

「小夜子さんも、ああいうの苦手なんでしょ?」
ふいに大澤くんが喋ったから、脳みそがキャッチしそびれて
「え?」
と聞き返してしまった。
「飲み会。馬鹿らしいよね、学生のああいうの」
「あ、うん。苦手かな、私も」
蝉が街灯の下で一匹だけマイペースに鳴いている。さっきまでいたクラブ棟の方角からは、時折どっと笑い声が聞こえてきて、それが酷く幼稚なものに思えた。
鈍感すぎなければ、大澤くんは小夜子が自分を好きだと気づいているのだろう。もし鈍感すぎる人なら、サークルに馴染めない同級生を気にかけて、時々こういうことをしてくれているのかもしれない。
大澤くんが、時々しかサークルに顔を出さない大学院生と付き合っているのは知っている。綺麗という一言では表現できない、嫌に大人っぽくて悩ましい雰囲気の人だった。
「別に、馴染むことが偉いわけじゃないからさ、気にすることないよ」
その声はちょっとくぐもって不安気で、きっと自分に言い聞かせているのだと思った。
「うん、そうだね」
いつも頷いてあげることだけが、彼を救う手段だった。
東京の大学に行っていたけれど、つまらなくて辞めて、こっちに帰ってきて受験し直したと噂で聞いた。だからか、大澤くんはみんなで何をしていても白けていた。小夜子が馴染めないのとは違う、意志のある孤独だった。
「ね、小夜子さんさ、俺、秘密の場所があるんだ。行ってみる?」
「秘密の場所?」
「うん、まだ誰にも教えてない場所。小夜子さんに教えてあげたいなってずっと思ってたんだよな」
意外なほど子供じみた発言だった。それなのに体の中が沸騰しそうなほど熱くなってそれは顔にまで到達していた。夜が暗くて本当に良かったと思った。

あまり小夜子が行くことのない理工棟の裏口にたどり着くと、大澤くんはドアの横についた小さな正方形の箱を慣れた手つきで開ける。
「オ、シ、ニ、ク、イ。だから覚えとくといいよ」
0,4,2,9,1と暗証番号を押すとガチャっと音がしてロックが解除される。
「ね、勝手に入って大丈夫なの?」
「大丈夫でしょ。深夜まで研究してる人もいるしね」
まだ入学して半年も経ってないのに、こういうこと誰に教えてもらうんだろう。
非常灯の明かりを頼りに、大澤くんの後について階段を上っていく。彼女とはいつもどんな話をしているのだろう。ここじゃないなら、どんな場所に行くのだろう。クーラーの切れた建物の中はサウナみたいで、汗が額をつたって流れた。三階に到着し長い廊下を進んでいく。スイミングスクールのカルキの匂いがする。両側に並ぶ研究室は、ときどきドアの隙間から光がこぼれていた。突き当りまで行くと、大澤くんは大きなドアの取っ手をゆっくりと回す。鈍い音が廊下中に響いて、ドアは開いた。
「ここだけ鍵が壊れてんだよね」
生ぬるい風が2人の間をすり抜けて、ドアの向こうから白い光が指した。目の前には6畳ほどの小さなバルコニーが広がっていた。バルコニーというより、出入り口の丁度上の屋根部分で、柵も壁もなくて、うっかり踏み外したら下まで落ちてしまうような所だった。まるでプールに浮かぶビート板みたいだ。
「なんか、いいだろ?」
「うん。いいね」
こんなところにいつも1人で来ている大澤くんが心配だった。
「小夜子さんもここに案内したいなって思ってたんだよ前から」
大澤くんの顔が月明かりの下くっきりと浮かび上がって、ずっとその横顔を眺めた。夜のプールに浮かべたビート板が2人だけを乗せて、このまま風まかせに流れていけばいいのに、とかそんな気持ち悪いことを考えてしまう自分がひどく幼くて痛々しかった。
柵のないむき出しのバルコニーを大澤くんは躊躇なくスタスタと歩いていく。
「ねえ、危ないよ、あんまり端っこに行かないほうがいいよ」
後ろ姿が闇に吸い込まれていきそうで、怖かった。
大澤くんは、端っこまで行くとすとんと座ると足をぶらぶらさせてジャワティーを飲みはじめた。
「大丈夫だよ。小夜子さんもおいでよ」
小夜子も恐る恐る歩いていき、隣にゆっくり腰を下ろした。そしてジャワティーを飲んだ。そこに座ると、丁度街路樹が街灯の全てと重なって、人工的な光はなくなり、月明かりだけになった。ざーっと風が木々を揺らした。もはやここは別の星なのかもしれなかった。ときどき隣の星からみんなの笑い声が、衛星をつたって流れるラジオ放送のように聞こえた。
「気持ちいいね」
小夜子は心からそう言った。
この人とは結ばれないんだなと何故かはっきりとわかった。
いや、もう結ばれているのだと思った。
生まれるずっと前から。前世から……いや違う、何だろう、わからない、
この世にはまだない言葉かもしれなかった。
大澤くんはコンクリートに寝転がって、
「まぶしいな」
と言った。小夜子も隣に寝転がった。
「ほんとだ、まぶしいね」
耳元で蚊の飛ぶ音がした。

  

 

●高橋久美子さんプロフィール
1982年、愛媛県生まれ。作家・作詞家。チャットモンチーでの音楽活動を経て2012年より作家活動を開始。様々なアーティストに歌詞提供をする他、詩、小説、エッセイ等の文筆を続ける。主な著書に詩画集「今夜 凶暴だから わたし」、エッセイ集「いっぴき」など。翻訳絵本「おかあさんはね」でようちえん絵本大賞受賞。5/26絵本「あしたが きらいな うさぎ」を発表。
公式HP:んふふのふ 

不要不急の外出自粛の夜に、誰かに聞いてほしい恋の話

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