グラデセダイ

【グラデセダイ17 / Hiraku】怒りと悲しみ

「こうあるべき」という押しつけを軽やかにはねのけて、性別も選択肢も自由に選ぼうとしている「グラデ世代」。今回は、中村キース・ヘリング美術館プログラム&マーケティングディレクターのHirakuさんのコラムをお届けします。英語と日本語とでは話している雰囲気が変わるというHirakuさん。なぜ英語だと怒っているように感じるのか、その理由を探ったら……。

●グラデセダイ17

突然ですが、私は日本語で話している時と英語で話している時のキャラクターが違うと言われます。日本語では「親しみやすい」「穏やか」「寛容」「おもしろい」などとほめられます。英語では「intimidating(威圧的)」「intense(感情的?)」「funny(おもしろい)」「sarcastic(皮肉っぽい)」など、かなり違うアングルで表現されます。

もしかしたらこのコラムでは、日本語で書いていても英語のキャラクターに近い自分を届けているのかなと思います。今回はみなさんに少し英語ヒラクを紹介させてください。

英語で話すといつもプンプンしている?

先日、友だちのアントニオに、6年前に仕事で起こった不満について英語で何気なく話をしていました。日本語も流暢なアントニオとは、現在同じ職場で働いていて、職場では唯一英語やスペイン語で会話できる存在としていつもだらだらといろいろなことについて話しています。そんな彼に、過去の不満を話していると、まるでその時にタイムスリップしたかの様に、どんどんと怒りが沸き始めました。「過去のことなのに、なんでこんなにイライラしてるんだろう……」と思ったと同時に「I think I have anger issues.(怒りっぽすぎて、もしかしたら心理的な問題があるかも)」と口にしました。アントニオはすかさず「I think… you do.(たぶん……そうだね)」と即答でした。

アントニオによると、私はいつもプンプンしているとのこと。彼はそれが瞬間的なもので、冷めるのを待つことが習慣づいていると言うのです。

その後、日本在住でニューヨーク時代から10年来の友だちであるギャヴィンにも聞いてみると、同じ答えが返ってきました。つまり私と英語で会話をする友だちはみんな、このホオジロザメの様な私を受け止めながら付き合ってくれているのです。これは問題ですよね。

自分の中に渦巻いている「怒り」

半年ほど前、ずっとセフレだった男の子がアメリカに引っ越すので、最後にコーヒーでも飲みに行こうと、彼と初めて外で会ったときのことを思い出しました。彼はあるカウンセリンググループに入っていて、そのお陰で初めて会った人でも、その人がどんなことを考えていてどういう人なのか、ほぼ正確に分析できるのだと言うのです。

よくあるスピリチュアル系の話なのかと思いましたが、なんでもそのカウンセリング方法は科学的な背景もあるというのです。それならと思い、私に対しての彼の観察結果を聞いてみました。

「ヒラクはなにかに怒ってるよね。過去になにかあったのか、それとも祖先まで辿ってトラウマを受け継いでいるかもしれないし。感情のデフォルトが怒り。」それを聞いてさらにイラっとした私。そのときはぼんやりと分かる気がしました。基本的にはセックス中心で会っていた人なので、ホオジロザメである正体がバレるほどの会話もしたことがないのに。そこまで確信的な診断結果は、その後もずっと頭の隅っこのカルテに記録されていました。

そして先日の会話で、その記憶がさらっと当てはまり、自分の中に渦巻く「怒り」について考えることになったのです。

「怒り」は芯にある「悲しみ」を守るもの

心理学において「怒り」とは、実は「悲しみ」の二次感情であると少し前に読んだことがあります。人は怒りで防御し、その芯にある悲しみを守っているのだと。そう考えると、私のデフォルト感情は「怒り」であり、そのさきにある「悲しみ」なのです。

今まで自分の人生にどんなに悲劇的なことがあっても、なんでもないと振り払って生きていました。純粋に「悲しみ」を感じたのは母の死。それ以来、悲しいと思うことはひとつもなかったと思っていました。でも「怒り」を「悲しみ」であると捉えると、小さいことでも悲しいことはたくさん。誰かに対する嫉妬心やイライラなど、数えられないほどの「悲しみ」を日々経験しているのです。

私の悲しみを分析してみると、他人から拒否されたり見捨てられたり、裏切られたりすることに原因があり、その二次感情として、「怒り」が表現されるのです。

例えば、少し前に世界的な映像ストリーミング配信会社が制作するアメリカの番組に出演する話がありました。さまざまなオーディションプロセスがあり、最終的には「たぶんあなたに決まると思うから、この月の2週間スケジュールを空けておいてください」とまで言われていました。

オーディションを重ねるなかで「もっと日本人っぽく」や「もっとハジけて」など、大げさなバージョンの自分を求められたり、ステレオタイプに導かれたり、普段ならばそっぽを向きたくなるようなことまで引き受けました。

しかし、撮影の日にちが近づくと「違う方向に進むことになりました」というなんともあっけないEメールで全て終わりました。

配信が近づき、ふたを開けてみると、日本で人気のある女優さんが代わりに出演していました。冷静に考えると、同じギャラを出して、もっと注目度のある人が雇えるのであれば、もちろんそっちに行くよなとも思うのですが、その話を英語で友だちにすると、いまだに怒りが燃え上がります。

それはきっと、「ノー」という答えを「拒否」や「見捨てられること」に自分の中で繋げていて、単純に悲しんでいるのです。

2020年は自分のことを知る年に

2020年は、セラピーに通おうと思っています。

なぜ自分がそこまで悲しんでいるのか、そのもろさはなにが原因なのか。また、それが日本語を話す人には、なぜ怒りとして表れないのか。そして、もしかしたら恋愛ができないことにも繋がっているのではないかなど、本気で自分のことを知りたいと思っています。

自分のことをもっと知ることによって、悲しみが晴れるのを期待しています。ホオジロザメからマナティーになれますように。

ニューヨーク育ち。2014年まで米国人コスチュームデザイナー・スタイリスト、パトリシア・フィールドの元でクリエイティブ・ディレクターを務め、ナイトライフ・パーソナリティーやモデルとしても活動。現在では中村キース・ヘリング美術館でプログラム&マーケティングディレクターとして、自身が人種・性的マイノリティーとして米国で送った人生経験を生かし、LGBTQの可視化や権利獲得活動に積極的に取り組んでいる。
グラデセダイ