転校生の憂鬱
●「寂しい」は「恥ずかしい」じゃない 04
寂しさは1人の持ち物ではなく場に紐づくものだという感覚を持っている。
自分1人しかその場にいない文字通りひとりぼっちな場合だけでなく、たとえたくさんの人に囲まれていたとしても、その人たちと面識がなければ孤独を感じるだろう。
例えば顔見知りがまだ1人も来ていないパーティとか、一緒に行く友達が1人も釣れなかったクラブイベントとか。似たようなことが冨樫義博による傑作『幽☆遊☆白書』のテレビ放送時の主題歌『微笑みの爆弾』にも歌われている。
それに、顔見知りではあっても寂しさを埋めるのに有効な関係が築けていない場合は、下手をするとまったくの他人の場合より強く孤独を痛感させられることにもなりうる。
コミュニティに参加する各々が、お互いの関係性の良好さに確信が持てなかったり、コミュニティにおける役割意識に不足を感じたりする夜は、何杯飲んでもどれだけ踊っても最高のパーティにならない。どこか虚ろに朝を迎えることになる。
転校生、私立にいった子、あるいはビビ
筆者の自己像の土台にあるのは自分が「転校生」だという客観視だ。
それゆえに、前述したような集団の中で感じる寂しさとはかなり長い付きあいになる。
転勤族の子として生まれ、小学校1年生の3学期に最初の転校をして以来、4つの小学校に通った。筆者が最後に通った小学校の卒業アルバムに登場するのは4年生になってからだ。1年生から3年生までの期間、この学年の子供たちの世界に筆者はまだいない。それがたまらなく怖かった。同じコミュニティの仲間の思い出に自分だけがいない、という感覚は、1人の子供にとってとても重いものだった。この教室で交わされるコミュニケーションの深いところに自分だけがアクセスできていないんじゃないか、という引け目がずっとあった。
成人してからおこなわれた小学校の同窓会へ行ったときに感じたことはとても大事にしていて、定期的に反芻する。
同窓会は大いに盛り上がったし、短いながら同じ時間を過ごしてきたなりの安心感もあった。けれど中学時代の思い出話が始まると、肌になじんだ寂しさに引き戻される。
ただでさえ小学校1~3年生の3年間を一緒に過ごしていないのに、筆者はクラスに2人だけしかいなかった私立中学に進んだ子供だった。それ以外の子は全員中学が一緒。保育園から高校までずっと一緒の人たちもざらにいた。
話についていけない筆者に、気の回る同級生が説明をしてくれる。中2の体育祭で何が起こって、どう笑えるのかを。みんなの笑いが収まってしばらくしてからようやく何がおもしろかったのか理解できて、1人でぼんやりと笑う。痛感した。おれは「ゲスト」だ。おれはこの子たちの物語の中にたった3年間だけレギュラー出演した期間限定キャラだ。ビビだ。おれは『ONE PIECE』でいうビビだ。
そういう自意識が根幹にあって、大学を出て社会人になってからもずっと根っこは生え変わらない。そもそもシンプルに機能不全家庭で育ったというのもあり、何があっても最後に駆け込めるような精神的な保障を担う拠り所がない。
常にどんな場にもゲストアカウントでログインして、会員登録をせずその場限りの住所情報を入力して、その場限りのコミュニケーションで済ませている感覚。住所はどうせまたすぐ引っ越して変わるから問題ない。
そんな本性を見抜かれた人からもらった言葉をずっと覚えている。高校時代に一緒にいた子から「谷山浩子の『よその子』っていう曲があって、君はこの曲に似てる」と言われた。
歌詞を読んだら何が言いたいのかよくわかって、つらすぎて笑ってしまった。
ホイミでMPは回復しない
今、筆者は文章を書く仕事をしていて、音楽などのユースカルチャー全般のほか、ジェンダーをはじめとしたソーシャルイシューに関わる領域を取り扱う。
「承認欲求」という言葉が気持ちの悪い使いかたをされるようになって何年か経つけれど、彼ら彼女らの言うその承認欲求的なるものが満たされることをライター稼業に夢見ている人はきっとうんざりするほどいるのだろう。筆者自身駆け出しの頃は、自分の書いたもので人に認められたら、自分の中のままならない寂しさが晴れるのかもとぼんやり期待していた。
自分の書いた記事を読んだ中学生から「記事を読んで救われました」とメッセージをもらったことがある。尊敬する書き手から「あなたみたいな文章が書きたい」と言われたことがある。敬愛するカルチャーの節目に自分の書いたものを通じて貢献できたこともある。1000万PVを超える記事を書いたこともある。
どれも心の底からうれしかった。ただ、それはそれ、これはこれだった。
自分が何か成し遂げたところで、根っこにずっとある寂しさには別に関係ないことだった。そのパラメータはその要素では埋まらなかった。英語をどんなに勉強しても数学の点数は上がらない、ホイミでMPは回復しない、どうやらそういうことらしい。
ただ、そんなことは最近めっきりどうでもよくなってしまっている。ダメージを受けないわけではないが、囚われずにいられている。
すべては最適化でしかないという認知
仕事の関係でWebの仕組みを自分の中に取り込む必要があり、知らず知らず影響を受け、あらゆることを考えるうえでの基盤になっていた。細かく分けるといろいろあるのだが、ざっとひとまとめにすると「最適化(optimisation)」という一言で片付けられる。これのおかげで筆者は根っこの寂しさをはじめとしたさまざまな囚われごとから健全な距離をとれるようになってきたように思う。
仕事術みたいな文章にしたくないのでさらっと説明するが、例えば一番わかりやすいもので「SEO」という最適化のメソッドがある。これはネットで検索したときに自分のサイトをより上位に表示させるためのノウハウ、といったものだ。
SEOの他にも最適化を目指すメソッドや考えかたとしてIA(情報アーキテクチャ)やユーザー中心設計、UI/UXなどいろいろあるのだが、わけのわからない言葉が並んで読む気が失せはじめているでしょう。大丈夫、どれもこれ以上掘り下げないし、「最適な形に持っていって問題を解決する」という点はだいたい共通している。
そういう観点で見ると、日常生活は最適化を繰り返して解決すべき問題の連続そのものだ。
自分の望む自分のありかたへ近づくために必要だと判断したことを粛々と1つずつこなしていく。自分に納得いく自分になるために最適な知識をつけて、物を買って、仕事をして、服を着て、本を読んで、音楽を聴いて、Netflixの番組を観て、最適化を重ねていく。
寂しさも悲しみも怒りも、最適化を目指して行動し、結果を得る過程で出た排気ガスみたいなものにすぎない。そう思うようになってごく自然と寂しさに目がいかなくなったし、あえて目を向けるたびに「あんまり目を凝らして見つめ続けるもんじゃないな」と思う。気分が下がるから。
一緒に行く友達が1人も釣れなかったクラブイベントで寂しさを感じるとしても、そのときに最適な行動は寂しさに浸ることじゃない。1人ででも行きたいと思ったほど楽しみにしていたイベントをしっかり楽しむこと。
吐き出されたネガティブな感情自体は「結果」ではない。結果は失敗にしろ成功にしろ、もっと実態を伴ったものとして目の前にある。目を凝らし見つめるのはそっちのほうだ。