「へたで、いい」03

武田砂鉄さん、ホントに「へたで、いい」んでしょうか?

女優で創作あーちすとの“のん”さんが、インタビューで「ヘタクソでもいいやと思えたら、ラクになれた」と語ったことから、「へたって、よくない?」と考えてみたシリーズ第3回。ライターの武田砂鉄さんにお聞きします。著書『コンプレックス文化論』で劣等感やコンプレックスへの世間の扱いに違和感を表明した武田さん、「へた」にどうアプローチしますか?

コンプレックスは引きずればいい

――ご著書ではコンプレックスをさらけ出す最近の風潮に異議を唱えていらっしゃいますね。

 いえ、『コンプレックス文化論』という本では、コンプレックスを「率先して嗜めばいいんじゃないか」と書いています。「さらけ出す」のが悪いのではなく、「さらけ出させられている」のならばよくないなと。

 コンプレックスなんて引きずってしまえばいい、なんで解決を迫ろうとするのか、誰なんだオマエは、ってことが積年の苛立ちで、自分の劣等感やウイークポイントって、解消する必要があるのかと長らく疑ってきました。

――武田さんとしては、「へたで、いい」には賛同できない?

 「へたで、いい」っていうのは、無理しなくていいよ、あなたはそのままでいいんだよ、って誰かから言われている、ということなんでしょうか。だとすると、そもそも、なんで言われなきゃいけないの、とは思います。たとえば小説を読むのが苦手な人が、無理やり読みにくい小説に挑戦し続けることで、そのうちに苦手意識が解消されていく。自己洗脳していく感じ。あらゆる場面で、そうやって自分で自分に向ける「無理やり何とかする」という選択肢があると思うんですが、あまりにも「そのままでいいよ」ってことになると、そういう「無理やり」が薄まって、今以上に、わかりやすいものばかりが提供されるようになるんじゃないか、それってつまんないんじゃないかなぁ、とは思います。もし、そのままでいいよ、がそういう方向に向かうならば嫌ですね。

 小説のレビューで「わかりにくかったです ☆1つ」みたいな評価がつくのって、ここ最近のことだと思うんですね。「自分の頭ではわかりませんでした」って宣言するのって本来恥ずかしいことだったと思うんです。映画でも音楽でもその傾向が強まっています。そういう声ばかりになると、作る側は読む側に配慮して、どんどんわかりやすいものばかり提供するようになるのかもしれません。

 最近、心ならずもファンキー加藤のライブを観に行ったのですが、サポートメンバーの1人がMCで、「加藤くんの歌唱にはあんまりバリエーションがなくて」と突っ込んでいた。でも、そこから、たとえヘタクソでも、気持ちだけは誰にも負けないから、みたいな話につながっていく。「等身大」の彼が、ああやって、汗かきながら頑張ってるんだっていうほうが、身近なスターというか、憧れやすいのでしょうか。

弱点をすぐ笑いに変えるってよくある。簡単だから

――若い人たちは、むしろ「へたであること」に肯定的であると。

 お笑い番組の影響も大きいと思うんです。電車の中で若者の会話を盗み聞きしていると、「オチのない話をすんな!」みたいなツッコミをしている。話を落とさないといけない。そうすると、一番手っ取り早いのは自分のウイークポイントをさらけ出すこと。それで笑いをとる。それがいちばん簡単で、誰も傷つかない。自分は傷つくかもしれないのに。

 芸人の司会者がいて、ひな壇に芸人が並んでトークするような番組では、しょっちゅう人のウイークポイントで笑いを生み出そうとする。コンプレックスとして抱えてきたものを、それ、ウケる、って他人に消費してもらう。突っ込んでもらう。ハードルを下げれば下げるほど、そこにいっぱい人が群がって集客できる。そうして「へたオーラ」「ダメオーラ」をまとって、「おれ、できへんのや~」みたいなリアクションで笑いをとる。そういうテレビでの振る舞いが日常生活に移行してきているような気がします。

――武田さん自身は、へたであることとどう向き合ってきたのですか。

 自分のコンプレックスは何だったかと振り返ると、当然、色々あるんですが、中学時代、サッカー部で万年控えキーパーだったことって未だに自分の根底にあるんですね。試合の日には、形式上、応援しなきゃいけないから、ベンチから「がんばれー」って叫ぶんですけど、勝つとまた翌週も休みがつぶれるわけから、内心で「負けろ」と願う。すると、感情がよじれたまんまになる。

 で、どうするかといえば、サッカーは下手だけど、アレをやらせたらオレの方がおもしろいからなって思うようになる。奇妙な考え方なんだけど、未だにそのよじれが残っています。あの時に、何でもいじっていいよっていうキャラを受け入れていたら、精神的にも「控え」になっちゃった気がする。あいつらサッカーが上手くても、面白いこと考えてんのはこっちだと謎めいた比較をしていました。

ブラックボックスと対話する

――武田さんが考える、「へたとの向き合い方」とは?

 自分が「へた」であること、コンプレックスだと感じていることを、他人に明け渡さないことが大事なんだと思います。「直しなよ」とも「そのままでいいよ」とも言わせない。「お笑いの現場」と化したコミュニティーの中でそれをやっちゃうと、「へた」っていうことが自分のものにならないですよね。そこで消費されて、面白がられて終わっちゃうのはしんどいので。

 カフェのテラスのように外に出してしまえるものと、押し入れの中にブラックボックスとして自分だけが抱えておくものを、キチンと区分けする必要があるんじゃないかと思います。ぶっちゃけが過ぎると、(玄関を開けると部屋の中が全部見える)「1K」の状態になっちゃうので、できればもう一部屋、少なくとも押し入れを作っておくほうが、精神的に健康ですよね。

 「墓まで持って行く」という表現がありますよね。墓まで持って行くためには、それまで押入れに隠しておくことが必要。弱点や「へた」をそう簡単に明け渡さないようにしたいなと思っています。

武田砂鉄(たけだ・さてつ)さん プロフィール

1982年、東京都生まれ。出版社勤務を経て、2014年フリーライターに。著書に『紋切型社会――言葉で固まる現代を解きほぐす』(朝日出版社、第25Bunkamuraドゥマゴ文学賞)、『芸能人寛容論――テレビの中のわだかまり』(青弓社)、『コンプレックス文化論』(文藝春秋)など。424日に『日本の気配』(晶文社)が発売される。

大学卒業後、テレビ番組制作現場でバラエティー、旅番組、報道番組などのディレクターを務め、2012年からはフリーの構成作家・ライターとして活動。近年は東京・荏原中延の「隣町珈琲」で「火鉢バー」を不定期開催中。
へたで、いい