「産む」選択、「産まない」選択 小説『燕は戻ってこない』から考える

手取り14万円、高い果物もスタバのドリンクも買えない……。その画面には、20代半ばのころの私がいた。小説『燕は戻ってこない』(桐野夏生/集英社)および同名の実写ドラマは、社会問題である代理出産と女性の貧困に焦点をあてた作品だ。主人公はワーキングプアの女性リキ。子に恵まれない裕福な夫婦の代理母となる。物語が進むにつれて、リキは「まるで以前の私だ」と気づいた。それは「貧困に苦しむ自分も、高額の謝礼を前にしたら、自分もリキのように代理母になったのか」という問いにつながっていく。生殖に関する権利は自分の意志で決めて尊重されるという「リプロダクティブ・ライツ」の観点から、「燕」とは何なのか、私なりに考えてみたい。
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大都会・東京に打ちのめされた20代

いま、私は産まない選択をしていて、それをテーマにした自著『母にはなれないかもしれない 産まない女のシスターフッド』(旬報社)も出した。かつて、20代半ばの産むに適した年齢と世間から思われていたころの私には彼氏もいたし、代理出産をお願いされても断ったはずだ。でも、謝礼がたとえば1億円……、今後の人生を何不自由なく送っていける金額だったとしたら、もしかしたら違う選択をしたかもしれないという思いが捨てられない。

2010年代前半。20代半ばの私は遠距離恋愛中の彼氏と婚約、大阪の田舎にある実家を出て上京した。観光客としてではなく、東京が暮らす場所、働く場所になったのだ。大阪も都会だと思っていたが、ありとあらゆるものが揃い、めまいがするほど人の多い東京に圧倒された。

家賃は彼と折半することになっていたが、東京に行く直前に「おれは近県にある実家にも住むんだから、お前がひとりで出せよ」と言われた。すでに東京で新しく賃貸の部屋を契約しており、私は承諾するしかなかった。前の会社で得た貯金は300万円ほどある。引っ越し代でだいぶ消えたが、なんとかなるはずだ。

そんな甘い見通しは、上京して2カ月も経たないうちに砕かれる。

新しく勤める企業でもらえる月々の総支給額は知っていた。無知な私は、そこから引かれる額を計算して手取りがいくらになるのかわかっていなかった。前社勤務のころは実家暮らし、手取り月22万円でボーナスをもらいながら生活していたからだ。転職した企業の給与明細の最後には手取り「14万円」と記載されていた。『燕は戻ってこない』のリキの給与と、偶然にも同額だった。

婚約者は自分の上司や同僚、後輩、友人に、彼女である私を紹介したがった。知り合うと、彼のいるそれぞれのグループに加えられて、毎日のように飲み会に参加した。いつもおごってもらうわけにはいかなかった。

貯蓄はすぐに潰えた。転職先では正社員ではあったが、総合職の女性は毎年ひとりしか雇われず、しかも新卒に限られていた。そのため私は主に事務職を担う一般職として入社して、企業受付や総務、時に人事や広報の業務をまかされた。振り込まれた手取り14万円に愕然として、共感を求めて周囲にいる一般職の女性たちを見回したが、私以外の一般職の女性は実家通いの人や、既婚者で夫の収入のある、生活に困らない人ばかりだった。

東京に生まれたかどうか。それだけで、こんなにも自由になる金額が違う。

これは『燕は戻ってこない』でリキの感じたことでもある。彼女は頑張ればもっと上にいけると言う人の偽善をも見抜いていた。フルタイムで働いているのに給与は安く、生きているだけで精いっぱいの日々。家賃の高い部屋には住めないので、セキュリティの甘い住まいしか選べず、住民のいやがらせに耐える。このような状況で、今以上の暮らしを目指して努力をするには、人並みはずれた精神的な労力が必要だ。リキにそれを求めるのは酷なことだった。

「リプロダクティブ・ライツ」なんて、誰も教えてくれなかった

リキを見ながら、私は自分の「産まない選択」について考えた。私はものごころついた時から子どもを欲しいと思ったことはなかった。成長すると周囲の女性たちは結婚や出産を望んでいることに気づき、孤独感を抱いた。当時の婚約者も、後の結婚相手ふたりも「結婚=出産」と当然のようにとらえていた。パートナーの意志を前に、私は産まない選択をすることへの罪悪感にも苛まれた。リプロダクティブ・ライツなんて、誰も教えてくれなかった。

29歳のリキも、自分の身体に関することは自分で選べ、尊重されるべきだなどと認識してはいない。たとえ彼女は、それらが分かっていたとしても、恐らく貧困から逃れるために代理母になる道を選んだだろう。女性が自分の身体を尊重すること、産む、産まないを選ぶこと、選べること……、それは経済的に余裕のある人にとっては納得できることなのかもしれない。しかし貧しくて叔母の葬式に行くことすらできないリキは、そんなことを考える余裕もない。代理母になることによる、多額の謝礼を前に「自分の身体の自由」はあっけなく崩れ落ちる。

貧困にあえぐ女性は、自分の身体を尊重する自由まで奪われるのだろうか。リプロダクティブ・ライツは、一部の恵まれた人しか享受できないのだろうか。新たな疑問が私の心に芽生えた。

エージェントを通してリキを代理母にしたのは、基と悠子という夫婦である。彼らは裕福な家庭を築いているが、原作小説では悠子の実家が決して豊かなわけではないと明かしている。登場人物ひとりひとりの豊かさや貧しさを描写しているのも本作の特徴だろう。そもそも代理出産のためのお金を払うのはこの夫婦ではない。経済的に豊かな家庭で育ち、息子の基にバレエに没頭できる環境を与えることができた、基の母である千味子なのだ。彼女は不妊治療を繰り返しながらも子どもを産めない悠子にいら立ち、「私と基の血を継いだ子にバレエの道を歩ませたいのに」と責める。

一方、悠子は自らの意志で本当に「産みたい」と考えているのだろうか。夫を手放したくないから不妊治療を重ねている可能性もあると感じた。それは子どもを持てばキャリアに影響すると言われ、悠子が焦燥感を抱く場面からも察しがつく。

悠子は、日本では認められていない代理出産に踏み切ろうとする夫と義母に戸惑い、貧困女性である代理母のリキに同情に似た感情を寄せる。自分の内面を見据えて、本当に出産したいのか、自分自身の身体を尊重しているのか自分自身に問おうとしない点においては、悠子もリキに似ている。

貧しさと対峙しているのはリキだけではない。女性用風俗でセラピストをしているダイキや、リキの同僚で夜は性風俗で身を立て、得たお金を彼氏に貢いでいたリキの友人テルも、明るく振る舞ってはいるが東京で困窮している。

対照的に画家として活動する、悠子の友人りりこは、実家が病院を経営していて非常に裕福だ。画業で生計を立てる必要もなく、アセクシャルとして結婚も出産もせず人生を貫けるパワーや自信は、彼女が貧しければ得られなかっただろう。りりこは豊かであるがゆえに、産まない人生を選べて、リプロダクティブ・ライツの概念をなぞるような生き方ができるのだ。

ドラマは原作以上に、代理母になるまでのリキの身体的な痛みを赤裸々に描く。人工授精でカテーテルを入れられた激痛で、診療後もうなだれるリキを見て、出産も不妊治療の経験もない私は目を見張った。つわりで寝込み、いざ出産すると、消えない跡が身体に残る。出産後は高熱にさいなまれ、帝王切開によってできた傷の痛みにも襲われる。この苦しみを、エージェントもリキを代理母にした基と悠子という夫婦も、事前にはリキに伝えていなかった。場合によっては、出産によって命を失う危険もあったはずなのに。

「こんなこと、聞いていない!」

リキの悲鳴が耳を貫くようだ。リキは一千万円で代理出産を引き受けたが、それはリキ自身の身体と命の値段でもある。終盤、リキは双子の出産を経て大きな決断をする。貧困から逃れられたわけではないと知りつつも、リキは小さな希望に光を灯す。

“選択”できるのは恵まれた人だけ……?

私の自著でインタビューした、「産まない」に向き合った6人の女性たちはどうだろうか。

「産まない」を選んだ、選ばざるをえなかった、選んでから後悔している彼女たちは、専門性のある正社員、実家暮らし、配偶者の収入で生きていける、その3点のいずれかに該当している。

この中にひとりだけ、結婚前は貧困女性だった人もいた。彼女は子どもが欲しくないが、「配偶者に養ってもらえないと生きていけない」と追い詰められ、自分の意志を曲げて相手には「子どもがほしい」と嘘をついた。「ピルは見つかったら怖いから使えないんです。今のところ、夫も不妊治療をしろとは言わないので、何とかなっていますが……」と胸のうちを打ち明ける。彼女はもし妊娠すれば、産まなければならない。彼女にリプロダクティブ・ライツはないに等しいのだ。

世界では、ボランティアで代理出産を引き受ける女性もいるという。代理出産を認める国もあれば、違法だとする国もある。日本でもさまざまな意見が飛び交っていて、代理出産を依頼する立場で考える人もいれば、代理母にならざるをえない貧困女性に思いを寄せる人もいる。

20代はとっくに終わった私。再びワーキング・プアになる危機に直面している。日本で代理出産が認可されても、これから私に代理母になることを求める人などいないだろう。かつての自分をリキの立ち場に置き換えて想像してみる。代理出産で1億円、もらえたとしたら? この金額ならこれからの数十年を何不自由なく生き、好きなこともできる。将来への不安が消える。そう言われたら、私は……私の産まない選択も、揺らいだはずだ。やはりリプロダクティブ・ライツとは、一部の恵まれた人のものなのだという思いに苛まれる。

『燕は戻ってこない』のタイトルの意味は読者、視聴者に委ねられている。知っているのは作者の桐野夏生さんだけ。私は「燕」のことを単に代理母のことだとは思えず、やり切れない気持ちになった。「燕」は、女性の身体を女性自身が決めて尊重されること、つまりリプロダクティブ・ライツの概念そのものなのではないだろうか。

貧しくても豊かでも、女性なら誰もが大切な「燕」を飼っている。つまり本来なら自分の身体や生殖に関することを自身で決めて、尊重することができるはずだ。しかしリキは、「燕、つまり自分の身体を尊重する概念を手放せば、貧困から抜け出せる」と言われて、燕を飛び立たせた。大切にしなければならない燕を手放さないと、今のまま貧困にあえぐしかない。

燕は戻ってこない。リキの腹には出産したことによる傷が残り、代理母になった過去も消えない。リプロダクティブ・ライツ、それは女性が自分らしく生きるための権利だ。代理母になったリキは、自身の身体を尊重できなかった。燕を手放した事実は残る。

しかし私は、『燕は戻ってこない』の後に、ひとつ付け加えたい言葉がある。「燕は戻ってこない。しかし気づくと、巣の中にはまだ燕はいる」。リキの人生はまだ続く。産める性、つまり女性であることも変わらない。新しい燕は言う。「これからも、あなたには産む、産まないを自分で決める自由がある。あなたの身体をどうするかは、あなたが決めて、自分の身体を尊重してほしい。そうすれば、私はずっとあなたのもとにいる」

“私の40歳”を探して〈vol.5〉 子なし女性の息苦しさはどこから? 対談「産まない」について考える “私の40歳”を探して〈vol.1〉 自分以外、みんな母になっていく
ライター。1984年、大阪府出身。いじめや不登校といった自身の経験と、日本語教師、アイドルなどの多様な職歴から「普通とは何か」をテーマに執筆活動を行う。2024年2月『母にはなれないかもしれない 産まない女のシスターフッド』(旬報社)を出版。
神奈川県在住。書籍表紙、出版物等にイラストレーションを提供しています。
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