産めないけれど育てたい。【前編】

池田麻里奈さん、結婚、不妊治療と流産。理想の「普通」を追い求めた日々

10年間の不妊治療で2度の流産と死産を経験、「コウノトリこころの相談室」を開設し、妊活中の人の相談にあたっている池田麻里奈さん(45)。44歳のとき、特別養子縁組で赤ちゃんを迎えました。不妊に悩み、人生が先に進まないと葛藤した日々、そして夫婦で向き合い、養子を迎えた体験を『産めないけれど育てたい。』として出版。不妊治療をする人が多い中、「選択肢のひとつとして特別養子縁組を知って欲しい」と言います。その思いにある自身の体験をうかがいました。

不妊治療、大切な人を失う・・・繰り返す喪失の中で

28歳のとき、2歳年上の夫と結婚しました。「子どもは3人欲しいね」と話していて、家族が増えて賑やかな中で子育てするイメージを持っていました。当時は経理の仕事をしていましたが、すぐ子どもができると思っていたので結婚を機に退職し、子育てが一段落したら復帰しようと考えていました。

その頃の私は、とにかく「普通」の家庭に憧れていました。というのも、私が小学6年生のときに両親が離婚し、4人家族が突然、父と私、母と弟に分かれたのです。以来、「お母さんがいなくてかわいそう」と、どこへ行っても言われて。自分自身は変わっていないのに、環境が変わると、こうも違うことを言われるのかと思いました。結婚して、子どもを産んで、子育てして・・・普通でいれば、こんな苦労もないのにと思っていたのです。

不妊治療のスタートは30歳。産婦人科で検査を受けると夫婦ともに問題はなく、同時にタイミング法が始まり、やがて人工授精にステップアップしました。結婚から5年、33歳のとき、2回目の人工授精で妊娠したのですが流産しました。「1回妊娠したのだから次こそは」と期待がふくらみます。流産から4カ月後、孫を心待ちにしていた父ががんを患い、59歳の若さで他界しました。

周りは子育て真っ只中の人が多く、七五三や入学などの話題がSNSで飛び込んできます。でも、我が家は赤ちゃんもいない、父もいない、悲しい喪失ばかり。朝起きると、また子どものいない日が積み重なる。これから毎日、長生きするほど、この気持ちが続くのか・・・。当時、飛行機に乗っているときに、ふと「この飛行機が墜落したら…」と思ったのです。今、人生が終わってもいい、と。成人して離れてからも、私をずっと見守ってくれた父。それは、とても大きな存在だったとあらためて実感しました。その頃は、遺族の悲しみを和らげるグリーフケアについても知らず、私自身も悲しみや喪失感を周りに伝えることができませんでした。

新しい命を求めることは、自分の生きる希望になるかもしれない——。そして、悲しみを埋めるように、体外受精に進みました。

フルタイムで出版社に勤務しながら、1年間、集中的に体外受精にトライしました。35歳を前に一番焦っていた頃です。あまりに急ぐので、医師から「体がもたないですよ」とたしなめられるほど。体外受精では採卵まで連日、排卵誘発剤の注射を打つのですが、数回を会社の診療所で引き受けてもらえました。職場を抜けてエレベーターで移動し、診療所で注射をしたら、またすぐ職場に戻る。「仕事中に私は何をやっているのだろう?」と思うことも。周りには子どもが欲しいことも不妊治療をしていることも伝えず、「婦人科の調子が悪くて」とごまかしていました。自力で子どもを授かれないと知られたくなかったのです。

「養子は考えていないのですか?」。その問いかけで特別養子縁組を知る

34歳の時、家族社会学を研究する方のインタビューを受ける機会があり、その中で「養子は考えていないのですか?」と聞かれました。治療すれば妊娠できると思っていたので、「夫との子どもが欲しいので考えていない」と答えました。でも、「特別養子縁組って日本にもあるの? 養子となる子どもはどこにいるの?」と気になって・・・。調べてみると、乳児院や児童養護施設にたくさん子どもがいることがわかり、「この子たちは、なぜここにいるの? この先どうなるのだろう?」と疑問を持ったのです。

その後、2回目の妊娠、そして流産をしました。諦めかけたら妊娠して、また希望が消える。期待しては落ち込むアップダウンの繰り返しで、心身ともに疲れました。望んでいるのに子どもを授からないことに加え、子どもの頃に思い描いていた子育てができない、人生が停滞して先に進めない。親しい友達には子どもがいて、自分だけが取り残されたような感じがしました。

突然の悲しみに直面する死産という体験

2回目の流産のあとに不育症の検査をすると、疑いのある項目が複数ありました。また、腹腔鏡検査で卵管と卵巣の癒着が見つかり、癒着をはがし、自然妊娠が望めるようになりました。その後、人工授精で妊娠。2011年、36歳のときです。

予定日は12月で、不育症の治療として血流をよくするヘパリン注射を毎日2回、自分で打っていました。「また流産するのでは」とハラハラしたものの、妊婦健診で順調と言われ、気持ちが落ち着いていきました。子どもの名前を考えながら、「子どものいる人は、こんなに幸せな時間を体験していたんだ。私もやっと幸せをかみしめていいのかな」と思いました。妊娠6カ月を過ぎ、友人たちに知らせると、とても喜んでくれました。言葉には出さないけれど、みんな応援してくれていたのです。

おなかの中で元気に育つ赤ちゃんを超音波で見ると、やっと子育てができる、生まれた後を想像するようになっていました。ところが、妊娠7カ月の健診で医師が告げたのは・・・
「赤ちゃんが動いていません。亡くなっています」

一瞬で世界が変わりました。その日を境に、赤ちゃんを迎える幸せが消えてしまった。どんなに努力しても気をつけても、命は思い通りにならない・・・。夢が叶わないことを思い知りました。

突然の悲しみの中で、お産をしなくてはいけません。陣痛促進剤を打っても赤ちゃんには生まれる力がないので、お産は長い時間かかりました。痛みに苦しむ私を、夫が手を握って支えてくれました。赤ちゃんが生まれた瞬間、分娩室は静まり返り、私と夫の泣く声だけが響きました。赤ちゃんの体重も性別も、誰も教えてくれません。医療者でさえ、死産した夫婦をどう扱っていいかわからないのです。

死産は本当に急なこと、危機に直面しているのにケアがないことを痛感しました。短い入院中、インターネットで調べて自分たちが今できることを考え、赤ちゃんに名前をつけて、抱っこして家族で写真を撮りました。

それからは自宅にこもり、ただただ泣いていました。その年の春に不妊当事者を支援するNPO法人Fine(ファイン)の不妊ピア・カウンセラーの資格を取得していて、その仲間が話を聞いてくれました。そして、流産・死産のグリーフケアをしているカウンセラーの先輩に助けを求めました。「お産、たいへんだったでしょう」と言ってくれた人は初めてでした。お産や子どもの話はタブーだと思って誰もしないし、聞いてくれる人もいなかったのです。

流産や死産で赤ちゃんを失った人のお話し会にも参加しました。何年も前に子どもを亡くされた方もいて、他の人の話を聞いて涙を流していました。「時間が経過しても泣いていい、悲しんでいいんだ」と肌で感じました。言葉がなくても同じ悲しみや辛さを共有できる。自分も回復したらこういう場を作りたい。カウンセラーとして自分の柱にしようと思いました。

翌年、乳児院で赤ちゃんを抱っこするボランティアを始めました。ずらりと並んだベッドに10数名の赤ちゃんがいて、一人ずつ抱っこしていくのです。施設のスタッフは日常の世話をしながら愛情を注ぎますが、どの子にも平等に接しなくてはいけません。本来なら親との愛情を育む時期なのに・・・。もどかしく、やるせない気持ちになりました。

少しずつカウンセラーの活動を始め、38歳のときに「コウノトリこころの相談室」を開設しました。 

コウノトリこころの相談室 

女性向け雑誌編集部、企画制作会社等を経て、フリーランスの編集者・ライター。広報誌、雑誌、書籍、ウェブサイトなどを担当。不妊体験者を支援するNPO法人Fineスタッフ。