池田麻里奈さん、結婚、不妊治療と流産。理想の「普通」を追い求めた日々
不妊治療、大切な人を失う・・・繰り返す喪失の中で
28歳のとき、2歳年上の夫と結婚しました。「子どもは3人欲しいね」と話していて、家族が増えて賑やかな中で子育てするイメージを持っていました。当時は経理の仕事をしていましたが、すぐ子どもができると思っていたので結婚を機に退職し、子育てが一段落したら復帰しようと考えていました。
その頃の私は、とにかく「普通」の家庭に憧れていました。というのも、私が小学6年生のときに両親が離婚し、4人家族が突然、父と私、母と弟に分かれたのです。以来、「お母さんがいなくてかわいそう」と、どこへ行っても言われて。自分自身は変わっていないのに、環境が変わると、こうも違うことを言われるのかと思いました。結婚して、子どもを産んで、子育てして・・・普通でいれば、こんな苦労もないのにと思っていたのです。
不妊治療のスタートは30歳。産婦人科で検査を受けると夫婦ともに問題はなく、同時にタイミング法が始まり、やがて人工授精にステップアップしました。結婚から5年、33歳のとき、2回目の人工授精で妊娠したのですが流産しました。「1回妊娠したのだから次こそは」と期待がふくらみます。流産から4カ月後、孫を心待ちにしていた父ががんを患い、59歳の若さで他界しました。
周りは子育て真っ只中の人が多く、七五三や入学などの話題がSNSで飛び込んできます。でも、我が家は赤ちゃんもいない、父もいない、悲しい喪失ばかり。朝起きると、また子どものいない日が積み重なる。これから毎日、長生きするほど、この気持ちが続くのか・・・。当時、飛行機に乗っているときに、ふと「この飛行機が墜落したら…」と思ったのです。今、人生が終わってもいい、と。成人して離れてからも、私をずっと見守ってくれた父。それは、とても大きな存在だったとあらためて実感しました。その頃は、遺族の悲しみを和らげるグリーフケアについても知らず、私自身も悲しみや喪失感を周りに伝えることができませんでした。
新しい命を求めることは、自分の生きる希望になるかもしれない——。そして、悲しみを埋めるように、体外受精に進みました。
フルタイムで出版社に勤務しながら、1年間、集中的に体外受精にトライしました。35歳を前に一番焦っていた頃です。あまりに急ぐので、医師から「体がもたないですよ」とたしなめられるほど。体外受精では採卵まで連日、排卵誘発剤の注射を打つのですが、数回を会社の診療所で引き受けてもらえました。職場を抜けてエレベーターで移動し、診療所で注射をしたら、またすぐ職場に戻る。「仕事中に私は何をやっているのだろう?」と思うことも。周りには子どもが欲しいことも不妊治療をしていることも伝えず、「婦人科の調子が悪くて」とごまかしていました。自力で子どもを授かれないと知られたくなかったのです。
「養子は考えていないのですか?」。その問いかけで特別養子縁組を知る
34歳の時、家族社会学を研究する方のインタビューを受ける機会があり、その中で「養子は考えていないのですか?」と聞かれました。治療すれば妊娠できると思っていたので、「夫との子どもが欲しいので考えていない」と答えました。でも、「特別養子縁組って日本にもあるの? 養子となる子どもはどこにいるの?」と気になって・・・。調べてみると、乳児院や児童養護施設にたくさん子どもがいることがわかり、「この子たちは、なぜここにいるの? この先どうなるのだろう?」と疑問を持ったのです。
その後、2回目の妊娠、そして流産をしました。諦めかけたら妊娠して、また希望が消える。期待しては落ち込むアップダウンの繰り返しで、心身ともに疲れました。望んでいるのに子どもを授からないことに加え、子どもの頃に思い描いていた子育てができない、人生が停滞して先に進めない。親しい友達には子どもがいて、自分だけが取り残されたような感じがしました。
突然の悲しみに直面する死産という体験
2回目の流産のあとに不育症の検査をすると、疑いのある項目が複数ありました。また、腹腔鏡検査で卵管と卵巣の癒着が見つかり、癒着をはがし、自然妊娠が望めるようになりました。その後、人工授精で妊娠。2011年、36歳のときです。
予定日は12月で、不育症の治療として血流をよくするヘパリン注射を毎日2回、自分で打っていました。「また流産するのでは」とハラハラしたものの、妊婦健診で順調と言われ、気持ちが落ち着いていきました。子どもの名前を考えながら、「子どものいる人は、こんなに幸せな時間を体験していたんだ。私もやっと幸せをかみしめていいのかな」と思いました。妊娠6カ月を過ぎ、友人たちに知らせると、とても喜んでくれました。言葉には出さないけれど、みんな応援してくれていたのです。
おなかの中で元気に育つ赤ちゃんを超音波で見ると、やっと子育てができる、生まれた後を想像するようになっていました。ところが、妊娠7カ月の健診で医師が告げたのは・・・
「赤ちゃんが動いていません。亡くなっています」
一瞬で世界が変わりました。その日を境に、赤ちゃんを迎える幸せが消えてしまった。どんなに努力しても気をつけても、命は思い通りにならない・・・。夢が叶わないことを思い知りました。
突然の悲しみの中で、お産をしなくてはいけません。陣痛促進剤を打っても赤ちゃんには生まれる力がないので、お産は長い時間かかりました。痛みに苦しむ私を、夫が手を握って支えてくれました。赤ちゃんが生まれた瞬間、分娩室は静まり返り、私と夫の泣く声だけが響きました。赤ちゃんの体重も性別も、誰も教えてくれません。医療者でさえ、死産した夫婦をどう扱っていいかわからないのです。
死産は本当に急なこと、危機に直面しているのにケアがないことを痛感しました。短い入院中、インターネットで調べて自分たちが今できることを考え、赤ちゃんに名前をつけて、抱っこして家族で写真を撮りました。
それからは自宅にこもり、ただただ泣いていました。その年の春に不妊当事者を支援するNPO法人Fine(ファイン)の不妊ピア・カウンセラーの資格を取得していて、その仲間が話を聞いてくれました。そして、流産・死産のグリーフケアをしているカウンセラーの先輩に助けを求めました。「お産、たいへんだったでしょう」と言ってくれた人は初めてでした。お産や子どもの話はタブーだと思って誰もしないし、聞いてくれる人もいなかったのです。
流産や死産で赤ちゃんを失った人のお話し会にも参加しました。何年も前に子どもを亡くされた方もいて、他の人の話を聞いて涙を流していました。「時間が経過しても泣いていい、悲しんでいいんだ」と肌で感じました。言葉がなくても同じ悲しみや辛さを共有できる。自分も回復したらこういう場を作りたい。カウンセラーとして自分の柱にしようと思いました。
翌年、乳児院で赤ちゃんを抱っこするボランティアを始めました。ずらりと並んだベッドに10数名の赤ちゃんがいて、一人ずつ抱っこしていくのです。施設のスタッフは日常の世話をしながら愛情を注ぎますが、どの子にも平等に接しなくてはいけません。本来なら親との愛情を育む時期なのに・・・。もどかしく、やるせない気持ちになりました。
少しずつカウンセラーの活動を始め、38歳のときに「コウノトリこころの相談室」を開設しました。
著者:池田麻里奈・池田紀行
発行:KADOKAWA 価格:1,540円(税込み)
概要:2度の流産と死産を体験し、「育てる」ことを諦めなかった夫婦のノンフィクションエッセイ。不妊治療、家族とは、夫婦であることとは・・・。特別養子縁組という選択肢を受け入れるまでの夫婦の葛藤にも迫る。転機となった日々を振り返る夫のコラムは、あまり知られていない男性側の気持ちを表現し、多くの人へのメッセージとなる。
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