「ミスコン」をどう捉えるか。ぽっちゃり女子の挑戦を描く「ダンプリン」が示す第三の道【熱烈鑑賞Netflix】
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今回妻から勧められた映画は「ダンプリン」である。ミスコンの映画なのだが、これが一筋縄でいかないというか、相当によくできた一本だった。現代においては何かと槍玉に挙げられがちなミスコンを、あげつらうでもなく全肯定するでもなく、絶妙な距離感で捉え直した作品である。
ぽっちゃり女子、母への当てこすりでミスコン出場
舞台となるのはテキサス州の小さな街。主人公ウィル・ディクソンは、かなり太めな体型のティーンエイジャーである。元ミスコン優勝者で多忙な生活を送る母ロージーに代わり、ウィルは幼い頃から叔母のルーシーに面倒を見られて育った。ウィル同様にふくよかな体型だったルーシーは、ウィルに歌手ドリー・パートンの魅力を教え、また後に親友となるエレンにも引き合わせてくれたが、若くしてこの世を去ってしまう。
母のロージーはウィルのことを「ダンプリン(「おデブちゃん」みたいなニュアンスのようだ)」と呼ぶが、ウィルはそれが気に入らない。体型にコンプレックスを持つウィルは事あるごとにロージーと衝突。また、ウィルの頭痛の種はロージーがいまだに元優勝者の審査員としてミスコンに関わっていることだった。そんなある日、ウィルは同級生のミリーが「デブ」とからかわれたことに憤慨。相手の男子の股間を蹴り飛ばして親を呼ばれてしまう。
問題を起こしたウィルに対し、ロージーは「叔母さんも自分の健康のために努力して痩せたなら、もっと長生きできたはず」と声を荒げてしまう。この世で最も信頼していた叔母をあげつらった母に対し、ウィルは激怒。おまけに叔母ルーシーの遺品の中から、下書きしたミスコンへの応募用紙を見つけてしまう。自信に満ちて見えた叔母ですら出場を考え、そしてためらっていたミスコンというものへの抗議、そして母に対する当てこすりもあって、ウィルは母も同席しているミスコンの審査受付に押しかける嫌がらせを実行。当然母親は自分の書類に出場許可のサインをしないだろうと思っていたウィルだが、ロージーは「特別扱いはしない」とサインをしてしまう。まともにミスコンに参加する気のなかったウィルは、いきなり出場することになってしまい大いに戸惑うが……。
アメリカでのミスコン熱は、それは凄まじいものだと聞く。1996年に発生し日本でも大きく報道されたジョンベネ殺害事件も、被害者のジョンベネ・パトリシア・ラムジーは美少女コンテストの常連優勝者だったし、アメリカにはミスコンという文化自体が根強く存在している(ミス・アメリカの初回開催は1921年で、すでに100年近い歴史があるのだ)。現在でも年間に開催されるミスコンの数は数千という単位で、一個落ちてもまたすぐ次に挑戦できるという状況らしい。
また、見た目だけではなく知性なども審査されるスカラーシップを目的としたミスコンも多数存在し、上位に入賞すると奨学金がもらえたり大学のオンラインコースが受講できたりするものも。特に「ダンプリン」の舞台になったテキサスのような南部でのミスコン熱は高く、幼少期から親が競って参加させるという。
なので、地元のミスコン優勝者はその土地のセレブとして扱われる。ウィルの母ロージーも完全にその口で、現在もいまだに地元のミスコンの予備審査や受付業務を仕切ったり、本番で使う曲を選定したりしつつ、「地域の恒例行事」に関わり続けている。予備審査の審査員を務めるのも、地元の美容院の社長やカーディーラーの店長など、土地の名士の皆様である。ミスコンはアメリカ人にとっては、「年に一度のおらが村の祭り」という側面もあるのだ。
そんな土地のそんな家に生まれてしまった、太めの女子。彼女の苦悩は想像するに余りある。母親と違って、体型も含めて自分のことを全肯定してくれた叔母への信頼も当然だ。母への反抗も兼ねてミスコンに出場したウィルの周りに集まってくるのは、デブと罵られても楽しそうにしているミリーや、ミスコンの本番で抗議をぶつけるつもりでいるフェミニストのハンナなど、どこかはみ出し気味な女子たち。彼女らは、自分たちよりずっと先に窮屈な暮らしからはみ出していた叔母ルーシーの跡を辿るように、人と違う生き方を選んだ人々が自分を表現する場所へと足を踏み入れていく。
ミスコンを否定するでも肯定するでもなく
ウィルは確かに太っている。だが、バイト先のハンバーガーショップでは機転のきく店員として重宝されているし、そこを見てくれる人にも恵まれている。彼女に足りないのは、コンプレックスを受け入れて自分に自信を持つこと、そしてそのコンプレックスを植え付けた最大の原因である母親と向き合うことである。当初は当てこすりとして参加したミスコンだったものの、それを通して色々な人と出会ったことで、ウィルは自分にまつわる問題を解決していく手がかりを掴む。
「ダンプリン」が面白いのは、この距離感である。前述のように、見た目を基準にして女性に優劣をつけるミスコンは、現在何かと槍玉に挙げられがちだ。ミス・アメリカでも水着審査がなくなり、出場者を容姿で審査しない代わりに「社会に影響をもたらす取り組みについて語る内容」で審査するということになった。そこまで変えるならもう中止すればいいのに……と思うけど、やはりアメリカ人にとってミスコンは「年に一度の村祭り」なので、中止することもできないのだろう。悩ましいところである。
「ダンプリン」にも、ミスコン粉砕を掲げ敢えて参加するハンナが登場する。その一方で「これに出るのが昔からの夢だったの!」と、やたらと楽しそうにミスコンに参加するミリーも出てくる。いろんな立場からミスコンに参加する女子たちを描くことで、ミスコンというもののありように多方向からフォーカスしているのである。可愛い女の子たちが着飾っていろいろパフォーマンスするわけで、そりゃあいつかは自分もそこに加わってみたいと思う女の子がいても確かに不思議ではない。かといってミスコンを全肯定するのも、やっぱりちょっとおかしい。これは、どちらかに結論を傾けるのが難しい話なのだ。
「ダンプリン」はミスコンというものに対して、「自分を肯定して思いっきり自己表現をするための場所としても存在しうるのでは?」という肯定的な疑問を投げかけている。頭からミスコンの存在を否定するのでもなく、従来の能天気な「美人コンテスト」的なあり方をそのまま肯定するのでもなく、第三の方向性を提示している映画なのだ。落とし所としてはクレバーかつ妥当、それなら納得する人も多いのでは、という気持ちになった。
現在「今まで当たり前に存在していたけども、今の価値観で見るとアウトなもの」に対しての風当たりが、今までにないほど強くなっていると思う。確かによくわからない慣習や決め事で不合理な目に遭ってきた人からすれば、そんなものは即刻粉砕してしまいたいというのも道理である。しかし一方でアメリカ人にとってのミスコンのように、立場を問わずそれを長らく愛し支えてきた人がいる行事だって存在している。それらも十把一絡げに破壊してしまっては、新たな摩擦を生むこともあるだろうと思う。
そんな中で、「ダンプリン」の提示した方向性は豊かなものだった。たとえクソみたいなイベントでも、見る方向を変えてみれば自分の問題を解決する足がかりになるかもしれない。人によってはミスコンに関する問題への追求が手ぬるいと感じるかもしれないけど、おれはこの手ぬるさこそが案外大事なんじゃないかと思う。単にミスコンに対して問題提起するだけにとどまらない、奥行きのある提案を抱えた映画である。
「ダンプリン」
監督:アン・フレッチャー
出演:ダニエル・マクドナルド ジェニファー・アニストン オデイア・ラッシュ マディ・パイリオ ほか
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