○歳のわたしへ

二子玉川の伝説のレストラン「PEACE TOKYO」 始まりは「好きなことやれば?」だった

レストラン「ALLO」「LOVE」オーナー鎌田京子さん(46) 東急田園都市線の二子玉川(ニコタマ)に2002年、いまでは伝説となっているリバーサイドの季節限定のカフェ「PEACE TOKYO」が誕生しました。河川敷の仮設の小屋から始まったカフェはその後、駅周辺の裏道にある半地下のワインを主体としたビストロ「LOVE」、再開発地区にはテラス席があるビストロ&カフェ「ALLO」へと発展していきました。 オーナーの鎌田京子さん(46)は30歳を目前に勤めていた照明器具会社を辞め、レストランビジネスでの「居心地のいい場所」づくりに乗りだしました。人生を“リセット”したいと考えている方に「贈る言葉」を聞きました。

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楽天的な私が「人生このままでいいんだろうか」と考えた瞬間

25歳のわたしへ

大学では建築学を学び、照明デザインをする会社を就職先に選びました。配属先は大阪本社。東京で育った私はなじめず、エクセルでの数字管理も苦手でした。自信がないから何をしていいか分からず苦しかったです。楽天的な私が、「人生このままでいいんだろうか」と考えることもありました。

ニューヨークで=提供写真

25歳のときに東京の事業所に異動になりました。すると遊ぶのが楽しくなっちゃって。六本木のバーにもよく飲みに行ったし、パーティーもしたし、スキーやスノボーにもよく行きました。そこで出会ったのが、ラジオの音楽番組のプロデューサーで、その後結婚に至ります。約1年後に「寿退社」してニコタマのアパートで暮らし始めました。夫の「好きなことやれば?」といく言葉が転機でしたね。

ドイツ、フランス、イタリア、イギリス、タイ、アメリカと、夫婦で友だちを訪ねて世界を旅する中で食への興味が芽生えてきました。フードコーディネーターの学校にも行きました。最終的にカフェを起業する動機となったのは、アルバイト先の東京・表参道の旧同潤会アパートにあったカフェの運営をオーナーから任されたことでした。

ニューヨークの知人と記念撮影(左)=提供写真

アイデアがすぐ採用されて、料理を出せばお客さんから「おいしい」という言葉が返ってくる。この喜びは大きかったです。運営全体を任せられるようになり、夢が膨らんでいきました。

「居心地のいい空間」が利用者だけでなく働く側にも伝わっている

28歳のわたしへ

祖母と両親、3姉妹の6人家族。つねににぎやかな空間で育ちました。「好きなことやれば」への私なりの答えは、食による「居心地のいい空間」づくりでした。

当時住んでいたのは多摩川の土手が目の前に迫る2階建てのアパート。春から秋の間、河川敷の掘っ立て小屋で、期間限定で営業していたラーメン屋のおばちゃんから、ある日突然、「わたし辞めるから店をやらない?」と声をかけられたのが、レストラン経営への第一歩でした。

でも、お金はありませんでした。「どうせやるならおいしいものを出そうよ」「手で食べられるものがいいね」

週末に自宅で開いていたホームパーティーの延長でやろうと考え、イタリアのナポリから電気ピザ窯の中古品を輸入して本格派のピッツェリアを目指しました。壁のペンキは自分たちで塗り、イスやテーブルは中古品を活用。お金がたまるとテラス席のパラソルを一つ買う、といった超節約経営でした。

初代「PEACE TOKYO」。夕方になるとかがり火がたかれた=提供写真

こうして2002年にオープンしたのが、川沿いにテラス席がある「PEACE TOKYO」(20席)。ジョン・レノンとオノ・ヨーコによる平和運動「Love & Peace」(ラヴ&ピース)から取った店名です。

「PEACE TOKYO」1年目の鎌田京子さん=提供写真

その後、多摩川と野川の合流地点にある「兵庫島」に移り、白いテント型の仮設レストランに生まれ変わります。テラス席を合わせて計100席。イタリアンやフレンチのシェフ、ホールのスタッフも雇いました。全員、30代半ば以下です。ホールスタッフのアルバイト募集に100人も応募がありました。理由は「すごく気持ちよさそうだから」。私が最初に考えた「居心地のいい空間」が、利用者だけでなく働く側にも伝わっているのを実感しました。

2代目の「PEACE TOKYO」。ミュージシャンや女優もお忍びで訪れていた=提供写真

レストランの規模が大きくなるにつれ、経営者としての役割が増してきました。12月から翌2月までのお店の休業期間にシェフをどうつなぎとめるかも大きな課題でした。その受け皿にもなる通年営業の店として2008年、にスペインバル(現在はワイン主体のビストロ)をイメージした「LOVE」、2010年にパリのブーランジェリーをイメージした「ALLO」(現在はフレンチレストラン)をオープンさせました。

伝説の「PEACE TOKYO」を思い出させる「ALLO」テラス席=提供写真

再開発が進んでいく中、ニコタマを面白い街にしようという思いが強かったです。ただ契約の関係で2010年秋をもって「PEACE TOKYO」を継続できなくなったのは誤算でした。

年齢とともに人の好みも変わります。若い時は夢中で仕事をしていましたが、いまは年齢とともに変わっていくことはいいことだと考えています。レストランって、集まる人たちが空間の雰囲気を作っていくものです。だから、三つのレストランも狙っていたというよりは、自然に作られていったという方がよいのかもしれません。

いまは新型コロナウイルスの感染拡大防止対策として「緊急事態宣言」が出されるなど厳しい状況ですが、いずれはホテルの運営もしてみたいと考えています。「自分たちが泊まりたい、居心地のいい場所」がコンセプト。昔、スペインのイビザ島で家を1棟借りて過ごした経験があります。風光明媚(ふうこうめいび)で、友だちを呼んで食べて遊べるような場所を探しています。

ポジティブなアドバイスをしてくれる仲間が必要

telling,世代のあなたへ

自分の中で好きなことがあればやり、逆に好きなことがなければ無理に何かをやろうとしなくてもいいと思います。

自分ができる範囲以上の背伸びは必要ありません。

大阪で照明デザインをしていた20代前半、気持ちがのらなかったし、就職前に想像していたことと違う仕事だったり、数字の管理に気を使ったりで疲れていました。モヤモヤした気持ちを抜け出せたのは、「こういうのがいいんじゃない」とポジティブなアドバイスをくれる仲間たちができたからです。

人間は孤独ですが、相談する人がいれば出口が見えてきます。モヤモヤしているときは、無理に考えることをしない方がいい。小さいことから始める、誰かのためにやる、そんな感じで少しずつ取り組んでいることが、ある瞬間、一つの流れにつながったり、そこから人の輪ができたりします。

以前は、20代の時にやっていたことが何一ついまにつながっていないと思っていました。でも、振り返ると照明デザインはその後の店舗デザインにいかされ、世界を旅していたときに感じた「食を愉(たの)しむ=居心地良い空間」という視点は、いまの店舗づくりにいかされています。

あとは、タイミングをうまくつかむことです。河川敷でカフェやレストランをやるなんて想像していませんでした。ラーメン屋のおばちゃんから「やる?」と連絡をもらえた縁と、その時の「即決」がいまにつながっています。

レストランが季節限定の「PEACE TOKYO」だけだった時代は、12月から翌年の2月までがヨーロッパのバカンスのような長期休暇でした。その期間に各地を歩き、楽しいこと、おいしいもの、快いことに出会い、自分や仕事をリセットしていました。インプットがあるからこそ、新しいものを提供できるのだと思います。

初代の「PEACE TOKYO」=提供写真

●鎌田京子さんのプロフィール
レストランのオーナー経営者。1973年、東京都生まれ。大学の建築学科を卒業後、照明器具メーカーに就職。カフェのアルバイトを経て、2002年、二子玉川の多摩川河川敷に仮設のカフェ「PEACE TOKYO」をオープン(2010年秋終了)。同じ二子玉川の駅周辺に2008年に「LOVE」、2010年に「ALLO」をオープンした。

●「ALLO」東京都世田谷区玉川1-15-6 ライズプラザモール 2F 050-5593-9211
●「LOVE」東京都世田谷区玉川3-12-5 ニコニコビル B1F 050-5456-5907

医療や暮らしを中心に幅広いテーマを生活者の視点から取材。テレビ局ディレクターやweb編集者を経てノマド中。withnewsにも執筆中。
フォトグラファー。岡山県出身。東京工芸大学工学部写真工学科卒業後スタジオエビス入社、稲越功一氏に師事。2003年フリーランスに。 ライフワークとして毎日写真を撮り続ける。
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