「いま・ここ」を楽しむ鑑賞者たちに、引き出しの場所を教えてもらう
●複層化するn-1
それは、やはり目の覚めるような体験だった。ある暑い休日に、ぼくは新潟県の越後湯沢に新幹線で向かった。クラウドファンディングサービス「Makuake」を提供する会社の人が主催の「大地の芸術祭」鑑賞ツアーに、なぜか唯一の男性として参加することになったのだ。
1泊2日、30名弱の華やかな女性たちに囲まれ、アート・フェスティバル「大地の芸術祭」を見て回る。このツアーでは、専門家の常日頃気にするような現代社会への批評性が言及されることもなく、美術に対する価値観のまったく異なる人たちと鑑賞すること自体が、ぼくにとって先入観を揺るがす現代美術的な体験だった。
だが、作品に批評性が内在していないわけではない。連れてきた子どもが倒したコップ、作品の前でポーズをとってSNSにアップすること、そして会場で売られているモチっとした食感のミルクアイスと、作品を批評する視点が同列にあるだけなのだ。
彼女たちは、難しい顔で作品の前で考え込むぼくよりもはるかに、「いま・ここ」を、全力で生きている。華やかなワンピースが、容赦のない太陽や鮮やかな棚田によく似合って、実に力強かったのが印象的だった。
向かい合う引き出し
美術展の関係者は、例えば「インスタ映え」を複雑な心持ちで受け止めている。いまや展覧会にインスタ映えや、その延長にあるSNS拡散は、展覧会事業を成功に導くために不可欠な要素と言える。ただ、それはときに作家への理解を妨げる。写真を撮り、SMSにアップすることで見た人が満足してしまい、作品の背景にある社会や現実への問題提起にまで、考えが至らないことが多いためだ。
もちろん、「資料の収集・保管、展示による教育、調査研究」を目的とする美術館と、芸術祭はそもそもの立ち位置が異なる。特に「大地の芸術祭」は、国内芸術祭の先駆的存在であり、メインストリートとしての立ち位置を守り続けている。つまり、教育や調査研究だけでなく、老若男女が楽しみ、地域社会が活性化される、その最大公約数としてのアート鑑賞を追究していて、また運営側もそのことに自覚的だ。
具体例を挙げよう。磯辺行久の《信濃川はかつて現在より25メートル高い位置を流れていた─天空に浮かぶ信濃川の航跡》は、作品名の通り1万5000年前に信濃川が現在よりも高い位置を流れていたことを踏まえ、年代ごとの高さや、様々な地層の痕跡を示している作品だ。ぼくらはそこに、河川が、長い年月をかけて変わり続けてきたものであり、今後も変わり続けるものであることを知る。もちろん「地形の変動」の延長に、毎年日本列島で繰り返される自然災害を連想することもできる。東日本大震災の翌日に、長野県北部の芸術祭エリアを、地震が襲ったように。
だが、それと同じくらいぼくの心を動かしたのは、作品の目の前に緑の鮮やかな田んぼが広がっていたことだ! 夕暮れの西日を浴びて稲穂はキラキラと揺れ、そのなかをトンボが泳ぐ。あぜ道をカエルが横切り、羽虫は軽やかに生命のダンスを踊る。作品と向かい合う「VIEW POINT」と書かれた場所までは、そのような(特に東京に住む人々にとって)非日常的な出会いに溢れ、その先で撮られる写真は、田んぼの先に作品を臨み、実にフォトジェニックだ。
軽やかにあぜ道を渡る
あぜ道ではしゃぐ子どもと撮影に興じる彼女たちを眺める。作品を前に、その奥(背景)にある作家の意図を知ろうとする人がいて、その手前には作品を媒介にいまを楽しむ人がいる。重要なのはどちらが正しいかではなく、作品鑑賞とは多様であると認識することだ。
自分の感受性のすぐそばに、まったく異なる感受性があり、引き出しが開けられるのを待ちわびている。そのことを知っているだけでも、解釈はもっと軽やかになる。そして、それは美術鑑賞にのみ当てはまるわけではない。
人によって様々な視点が成り立ちうる物事への解釈や信念を、一歩離れて客観的に眺めるだけでも、ぼくらはもっと自由に共生できるだろう。