偏見、#Metoo、その先を目指して。ハリウッドで挑戦し続ける原動力とは。
最初の一歩は勘違いから?
「幼い頃から、テレビドラマの登場人物になりきることが好きでした」。
小さいころは、姉と一緒に作ったお芝居を家族の前で披露するような子供だったそうです。香里菜さんの父は、大学時代に京都の撮影所で働いた経験もあるそう。その影響で、香里菜さんは幼い頃から多くの映画にふれます。「父親の解説付きで、ウィリアム・ワイラー監督(『嵐ケ丘』や『ローマの休日』『ベンハー』など)やジョン・フォードの西部劇を日曜洋画劇場などテレビでよくみていました」
ハリウッドは遠くから憧れる夢の世界でした。しかし、転機となったのは、高校の卒業旅行で訪れたロサンゼルス。ハリウッドのカフェにいたところ、映画プロデューサーに声をかけられたのです。シルベスタ・スタローン主演の映画などを手がけたという男性に、香里菜さんは「君は女優? ミュージックビデオに出演しない?」と尋ねられたのです。
「女優は選ばれし特別な人というイメージがあったので、自分と関連づけて考えるなんて思いもしなかった。でも、私が女優に見えたならば、もしかしたらなれるかもしれない」。この時に声をかけられた一言を機に、香里菜さんは女優を目指す決意を固めました。
「今となっては分かります。ロサンゼルスには本当に多くの俳優志望者が集まり、映画関係者の目にとまるような店で働いています。だからあちこちに俳優志望がいても、全く不自然じゃない。あの一言ですっかり勘違いしちゃいました」
英語力ゼロからのスタート、初仕事はディカプリオのCM
香里菜さんは、大学に通いながら演技学校でも勉強を重ねました。「英語は全く得意ではありませんでした。だからハリウッド映画のセリフや、好きなロックバンドの歌詞を書き出して、覚えるようにしました」。
同級生が就職活動に励む中、「ハリウッドで女優になる」と周囲に宣言し、大学卒業後、ロサンゼルスに渡ります。有名な演出家が起ち上げた演劇研究所に入学しようとしたものの、英語力不足で不合格に。「3カ月間語学学校に通って再度受験し、入学することができました」
演劇研究所を卒業後、芸能事務所に所属した香里菜さんの本格的な仕事の第一歩は、「タイタニック」(1997年)公開直後の当時、世界的なスターとなったレオナルド・ディカプリオが登場するオリコカードのCMでした。
「ディカプリオは刑事(デカ)の役で、ホステスのいるクラブに捜査に入って、ヤクザと戦って店の中をめちゃくちゃにするんです。クラブの支配人に『会計はどうしますか』とたずねられたディカプリオが『オリコカード、オッケー』と言う内容です(笑)。ホステスの役をやりました」
そのときのディカプリオの立ち振る舞いが忘れられないと話します。「彼は現場に到着すると、喧嘩の立ち回りをすぐ覚えて、一発で撮影を決めました。スターは本当にすごいなと圧倒されました」
最初こそ仕事に恵まれましたが、そこから厳しい日々が待ち受けていました。
「オーディションを受けようにも、アジア人の役自体がほとんどない。私の英語力も米国育ちのアジア系アメリカ人と対抗できるぐらいではなかった。『英語がままならない日本人の役』は、本当に稀にしかなくて、大変でした」
ロサンゼルスで暮らし始めてから数年。がむしゃらに学んできた香里菜さんの英語力は、飛躍的にのびたものの、ネイティブの発音や自然な言い回しをマスターしたとは言い難い状況だった。「次第に自分が演技で悩んでいるのか、英語で悩んでいるのか、分からなくなっちゃって……」
20代半ばでいったん日本に戻ることにしました。
古今東西の名劇を上演する「TPT(シアタープロジェクト・東京)」などの公演に参加して舞台に出るかたわら、テレビの再現ドラマに出たりして日本語で演技の経験を積んでいきました。「おかげでふっきれました。英語ももちろん難しいけど、演技ってやっぱり難しくて奥深いのだな、と。気持ちの整理ができてよかった」
生活費は派遣会社で通訳や翻訳の仕事をして稼ぎ、日本で5年ほど生活を続けたものの、再びロサンゼルスに戻る決意をします。「地方から東京に出てきて、生活費を稼ぎながら役者を目指して命がけで頑張っている役者仲間たちをみて、『ロサンゼルスでの私は、周りからこういう風に見えたのだろうな』と思うようになったのです。私は東京の実家暮らしで、生活にも余裕があった。でもハリウッドがどんどん遠ざかっていって……。このままではダメだと思いました」
すべてを演技の糧に
ハリウッドに戻ってから、ドラマや映画などのオーディションを受けて、いくつかの役を勝ち取ります。その軌跡はこちらでも確認できます。
「若い頃、『決定権のある人=男性に好かれないと、役がもらえない』という思考に陥った時もありました。求められた日本人女性像って、つまるところ男性が見たい日本人女性像。弱々しくて、男の人に助けてもらえて、主人公に『ありがとう』というような役割。決して、その人独自の個性があるような役じゃないんです。そういったステレオタイプに応えなくてはいけないと思い、やりきれなくなったこともあります」
「でも、映画界の外に目を向けると、ロサンゼルスで出会った人たちは本当に様々な人生を送っています。『こうあるべき』という押しつけがなくて、それぞれの生き方をリスペクトとしています」。この地で暮らすにつれて、香里菜さんも自分らしく生きることに自信を得ていきました。
2017年、有力映画プロデューサーの長年にわたる性暴力が公になったことを端に、#MeToo運動が世界にひろがります。役者のジェンダーや年齢・人種によって、配役やセリフの量に差があるなど、ハリウッドにおけるジェンダー格差、人種格差なども明らかになり、多様性への関心が一気に高まりました。
「声をあげることは大事なのだと感じました。同じぐらい重要な役柄でも、男性俳優の方がギャラを多くもらう慣習も見直されることになった。当たり前だと思われていることにも、『No』と突きつけないといけないと学びました」
チャンスは自分で作る
ハリウッドで俳優の仕事だけで生活の糧を得ている人はほんの一握り。香里菜さんも会議や商談で通訳の仕事などをしています。
「医療関係から金融業界まで様々な通訳をすることは、役作りに役立っています。でも女優としてのアイデンティティーを第一に生きていきたい。コンスタントにお仕事がもらえるようになりたい。一場面だけ出る役ではなく、その人物の人生を表現したいのです」
オーディションは週に1度ほど。「コンスタントに演技する機会が少ないと、女優である自覚がなくなっていくんですよ。それは致命的だなと思いました」
ただ受け身で待っていても、チャンスはつかめない――。
香里菜さんは自分で脚本を書き始め、自身が主演する短編映画や演劇を作るようになります。22年には、静御前を主役にした演劇「SHIZUKA 静」を演出し、ハリウッドで上演しました。日本の歴史をモチーフにしたゲームやアニメは、世界的に根強い人気があります。「静御前は記録があまり残っていないので、比較的自由に解釈できます。もともと私は日本史が大好きなんです。源頼朝や梶原景時、北条氏など権力の中枢にいた人たちの人間模様を、アメリカにきちんと紹介したい、という情熱も持っていたのです」
当時、ロサンゼルスに遊学中だった筆者も、鑑賞しました。香里菜さんは長年日舞を習っており、まず衣装や所作が本格的なことに驚かされました。さらに驚いたのが、日本の歴史上の複雑な愛憎劇がアメリカの観客に見事に受け入れられていることでした。静御前に扮した香里菜さんの舞の美しさは、今も目に焼き付いています。
今年、香里菜さんは新たな歴史劇を発表しました。淀君を主人公にした1時間にわたる演劇「CASTLES IN THE CRIMSON FLAME」です。
「日本の歴史上の人物に憧れるアメリカの役者たちと、一緒に舞台を作り上げるのは素晴らしい体験でした。『かっこいいサムライになる』と頑張ってくれたのが、すごく嬉しくて。エキゾチズムではなく、ストーリーを受け入れてほしかったので、登場人物の身分や性格によって、英語のアクセントやしゃべり方を変えるなど工夫しました。演劇の脚本を書いて、プロデュース、主演をしても、そんなにお金になりません。でも、一作ごとに成長を実感できてやりがいを感じます。このお芝居の脚本は2時間あるので、そのフルバージョンを必ず上演したいです」
様々な挑戦を続ける香里菜さんは、演劇と映像を手がける団体も起ち上げました。
原点であるハリウッド映画への情熱も、衰えていません。「やっぱり撮影現場が大好きです。大勢の人が集まり一つの目標に向かう現場は、今でもワクワクします」
「とにかく結果を出したい」と強調する香里菜さん。彼女にとって結果を出すこととは?
「まずは女優の仕事だけで生計を立てることです。性別や年齢、人種などを言い訳にはしたくありません。声をあげた人たちのおかげで、アジア系の役や年を重ねた女性を主人公にした作品も以前よりはずっと増えました。そして、いざチャンスが巡ってきた時に、観客を魅了できる演技を見せるのが、私たちの責任だと思うのです。その時のために、ちゃんと準備をしておきたい」