虐げられた彼女たちは立ち上がった。映画「燃えあがる女性記者たち」
「あなたのニュース、あなたの声で」
「自宅に一人でいたら男たちが押し入り、私を囲んだ。逃げられなかった。男たちは私をレイプした。一度ではなく、その後、彼らは何度も何度も訪れてレイプしていく」。土壁に囲まれた家の、電気が通っていない薄暗い部屋で、被害にあった女性はか細い声で訴えていました。
その姿をスマホで動画撮影をしながらインタビューしていたのが、ラハリヤの主任記者である32歳のミーラです。
「警察にいきましたか?」というミーラの問いに、女性は「毎回行ったが、何も聞いてくれない。それどころか大声で脅されて、殴られる」「いつか殺される」とおびえた様子です。被害にあった女性と夫は警察に何度も足を運んだものの、門前払いされていたのです。女性の夫は「頼りにしているよ、ラハリヤ紙だけが唯一の希望なんだ」とミーラに懇願します。ミーラは夫婦から被害届を預かり、警察に向かいます。
「被害届をみたことがない」「前任者の担当であったので、何も知らない」と顔をこわばらせる警察署幹部の男性。ミーラは「あなた個人を責めたいわけではない」となだめつつも、「警察署が知らぬ存ぜぬというのが驚き」と冷静に詰め寄ります。その過程もすべて、スマホにおさめられていました。
「ニュースの波」を意味する、カバル・ラハリヤ(Khabar Lahariya)。2002年にインド北部、国内最大の人口を抱えるウッタル・プラデーシュ州で、ダリトの女性たちによって、女性だけが運営する週刊新聞として創刊されました。掲げたメッセージは「あなたのニュース、あなたの声で」。
映画は2016年、ラハリヤが紙の新聞から動画メディアに大きく舵をきった時期に撮影されました。インドで新聞記者といえば上位カーストの男性が大半だそう。その中で、最下位カーストの女性たちで運営されるラハリヤは異例の存在です。
「ダリトの、しかも女性が新聞記者なんて、ありえなかった。私たちは14年かけて概念を変えてきた」と振り返るミーラ。貧しい家庭に生まれ、14歳で結婚させられたものの、娘2人を育てながら学び続けて、修士をとった努力家で、いまやラハリヤ紙をリードする存在です。
ミーラは、学校で差別を受けた幼い娘たちに「どこにいっても差別はついてまわる。でもそれを超えていけ」と励まします。そして「私だって差別を克服できていない、その社会構造を背負っている」「ロケットを飛ばすくらいインドは発展した。でもこの点では変わっていない……」とも漏らします。
激しい身分差別や女性への性暴力が絶えない状況で、なぜミーラは10数年も闘い続けているのか。その原動力は、社会を変えたいという強い意志でした。ミーラはこう語っています。「デジタルへの移行を成功させたい。ダリトの女性も力を持てば大きなことができると知らせたい、これは私自身の挑戦でもあるんです」
映画「燃えあがる女性記者たち」は、ラハリヤのミーラと、ミーラが若手記者の有望株と期待を寄せる20歳のスニータを中心に展開していきます。
差別は社会でも、家庭でも
スニータは幼い頃採石場で働いていました。違法採石による公害で、故郷の環境はすっかり破壊されたそうです。「私はペンの力で人を守ることができる」と意気込むスニータ。違法採石の被害を訴える人々たちの声を「自分ごと」として熱心に取材していくスニータですが、女性差別や階級差別の厳しいインドで、ダリトの女性が仕事を続けるのは容易ではありません。
マフィアが背後にいる採掘業者から圧力を受けて「報じることで身の危険を感じる」と話し、仕事を終えて深夜に帰宅すると父親からは「夜遅くまで何をしているんだ」と非難されます。ですがスニータは勝ち気に「娘がどんな仕事をしているのか知らないなんて、ありえない」と言い返します。父も負けじと「多くの男が学のある妻は求めない、結婚しても役に立たない」と返します。
主任記者であるミーラも、「仕事より家をまわすことが大事だ」と考える夫の無理解に直面します。幼なじみでラハリヤの同僚であるカヴィタが加勢し、不満をこぼすミーラの夫をやりこめる場面が痛快です。このように、この映画では、ミーラと後輩記者のスニータ、同僚同士のミーラとカヴィタなどあちこちでシスターフッドを感じられます。
ある女性記者は「元夫に、『女が夜遅くまで働くなんて』と皮肉られたので、『あんたは捨てても仕事は捨てない』といった。暴力を受けたので離婚した」とせいせいとした顔で振り返ります。ラハリヤで働く女性たちは、互いに励ましあいつつ、仕事を通じて自分に自信を持ち、スマホを片手に世の中を良くしようと挑んでいました。
ミーラは「スマホを触ったこともない」「記事を書くのでやっとなのに動画撮影なんて……」と戸惑う若手たちを優しく励ましつつ、新しい時代にあった報道のあり方を模索します。動画戦力が功を奏し、ラハリヤのサイトの再生回数はどんどん増えていき、ついには再生回数が累計1億5千万回に達するほどに。女性記者たちの顔が自信に満ちていく過程も、ぜひ映画館でみていただきたいです。
舗装されていない道路や干上がった農業用水路、電気がいまだに通らない村の苦境など、ラハリヤの記者たちは貧しい人々のもとに赴き、その声を拾っていきます。どのニュースも反響がとても大きく、行政や警察も動かざるをえなくなっていくのです。
「カバル・ラハリヤ」の公式サイトには、今も連日動画ニュースがアップされています。現在、約30人の女性記者を抱え、地方にもネットワークを持ち、毎月500万人の視聴者にニュースを届けているそう。ぜひ映画を通じて、カバル・ラハリヤの女性記者がたどった道のりや志を知っていただきたいです。
「婦人は新聞記者に適するか」
差別に立ち向かう女性記者たちは、遠い異国の物語ではありません。日本ではどうだったのでしょうか。
今年出版された、平山亜佐子さんの力作「明治大正昭和 化け込み婦人記者奮闘記」(左右社)は、新聞黎明期の明治時代から昭和初期にかけて、「婦人記者」とよばれていた女性たちの仕事ぶりを明らかにしました。著者の平山さんの綿密な調査と問題意識のたまもので、平山さんの鋭い論考(突っ込み)もあり、とても楽しく読める本となっています。たとえば本の中で、1900年(明治33)年1月12日付「読売新聞」に掲載された「今日の婦人は新聞記者に適するか」という記事が紹介されています。
女性が文学や雑誌記者には向いているが、新聞記者には難しいという理由として、
“(一)女性は綿密な注意力と鋭敏な感情を持っているが裏をかえせば遅鈍で感じやすい。記事の執筆にはスピードが求められ、社会の刺激や誘惑に動かされない資質が必要で、女性はそれを欠いている。
(二)学校を出たての女性は社会知識が足りない。学識があったとして政治や経済の専門知識がなく、三面記事を書くには世間知らずである。
(三)婦人記者を雇うためにわざわざ婦人欄や家庭欄を設けるほどの余裕のある新聞社はない“
だそうです。
どこをどう突っ込んでいいのやら……。明治や大正時代の男性知識人たちが、自分たちのことを棚にあげて、かつ個人の資質をジェンダーによるものと置き換えて、勝手な「婦人記者論」を展開した記事がいくつも引用されています。これらの記事でみられる性差別や偏見は、ほかの分野にもあったでしょう。男たちが婦人記者をあらゆる現場から締め出そうとした結果、苦肉の策として、ある婦人記者が行商人に変装して、上流階級や権力者の家に訪問して見聞きする「化け込み」取材を始めます。それが一大ブームになり、複数の女性記者が挑戦した様子を本では紹介しています。
本の中で「真面目で特別に優秀な記者である。にも拘わらずというべきかだからこそというべきか、彼女が記者生活で味わわされた辛酸はほかの誰よりも苛烈である」とされた、朝日新聞記者の北村兼子(1903-1931)も化け込み取材をした一人です。
関西大学在学中からとても優秀だった北村は、在学中の1925年に大阪朝日新聞の社会部に採用されます。当時としては極めて異例でしたが、男性と同じく事件事故や政治の取材を任されます。北村はドイツ語や英語に長けていて、法律にも詳しく、文才が豊かだったため、入社後2年間で、化け込みルポや論考をまとめた著書を4冊も出すスケールを超えた新人記者でした。ですが、それゆえ、嫉妬も交じりの苛烈なバッシングを男性たちから受けます。兼子に対して、「一流記者になったつもりか」「悪い奴にオダてられたのだろうか」などと皮肉った書評が紹介されています。
私が最も驚いたのは、大阪朝日の「天声人語」(1926年6月2日付)でした。北原を名指しして、「間違えて女性に生まれた男性のように自信満々、怒りに任せて男性を呪(のろ)うかのように嘲るかのように振る舞っている」という内容でした。それに対して北村が「誰が筆者か分かっている」などと真正面から反論すると、バッシングがますます強まり、ゴシップ紙で「淫婦」だの「恋人が大勢いる」などと捏造記事が書き立てられたそうです。その後、北村は大阪朝日新聞を2年で退社。その後、夢に向かって邁進する最中のわずか27歳で、体調が急変して死亡します。
では、戦後民主主義の時代、日本の女性記者たちはどうだったのか。それを知るのに役に立ったのが、各新聞社の女性記者有志「女性ジャーナリスト・ペン検証と研究の会」が、1995年にまとめた「女性記者の記事にみる戦後50年」でした。賃金格差や選択的夫婦など今に通じる課題や女性記者をめぐるメディアの状況がかいまみえます。
戦後民主主義も闘い続く
たとえば1950年代、共同通信から「結婚・なぜ姓がかわる?―家の観念と結びつく」という夫婦同姓について疑問を呈する記事が出ていました。60年代、女子の大学進学が一気に増えた際に、男性知識人たちから「女性は勉強しても結婚でやめていくので、教育を受けても無意味」などと唱える「女子学生亡国論」が広がりました。それに対し、読売新聞の女性記者は「問題は、教育の機会が均等になっても、社会の受け入れ態勢は追いつけないままだったこと」としたうえで、さらに大卒の50代の女性にインタビュー。その女性の「就職難の後、家事や子育てと仕事の両立を苦労し、今は親の介護など高齢化の問題に直面している。制度の遅れや不備、社会のすき間を埋めてきたのは、“亡国の徒”と言われた私たち自身だったのでは」という言葉で記事を締めくくっています。お見事です。
70年代には、家庭科で女性だけに浴衣を縫わせる方針に反対する女性たちの声をとりあげたり、国際女性年のイベントで「最近は要求ばかりするから世の中がギスギスする」など冗談めかした男性司会者の態度を非難したりしています。男女雇用機会均等法が施行した1980年代には、すでに「女性初の●●」がニュースになることを皮肉る記事が出ていました。また、日本人男性が東南アジアに売春ツアーに出かける実態を暴いたり、同一労働同一賃金が早く実現するように提唱したり、はたまた芥川賞の選考員にこれまで男性しかいなかったことを指摘したりしたのも女性記者でした。記事が出た直後に、芥川賞は女性に選考委員の門戸を開きました。また男女雇用機会均等法4年目には、正社員の男女間で昇進や賃金格差が生じていることや、はたまた美術批評におけるジェンダー差別や女性の住職を認めない宗教界の差別など、実に多様なテーマをとりあげています。
燃えあがる女性記者たちがいた・いるのは、インドのカバル・ラハリヤだけではありません。ラハリヤは女性のみで運営されるメディアですから、少なくとも社内は安心して物が言える場所でしょう。ですが、日本の女性記者たちは男性中心の社会、会社の中で、ある人は孤立し、ある人は過剰に男性社会に順応したりしながらサバイブしてきたのです。
インドのカバル・ラハリヤ同様、日本にも今も燃えあがる女性ジャーナリストたちがいます。果たして自分はどうなのか……。20数年ほど新聞記者をやってきた私。この映画を見ながら、女性ジャーナリストの先駆者たちに思いを馳せつつ、ミーラが真っ直ぐカメラをみて語った「ジャーナリストは民主主義の源。権利を求める人々の声をメディアは行政まで届けることができる。人権を守る力があるからこそ、それを人々のために役立てるべきだと思う。責任を持って正しく力を使う」という言葉を今かみしめています。