インスタに手作りケーキの写真をあげる既婚子持ちの友達が死ぬほど羨ましい、本当の理由

結婚や子育てよりも、キャリアや自分自身の人生を優先してきたライターの暮石セルヒさんが今、既婚で子持ちの友人に感じる“思い”を綴ります。
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パートナーや家族についての投稿が“眩しい”

大企業の社員と結婚し専業主婦になった学生時代の友人がいる。夫の全国転勤に伴い家族は数年に一度のペースで拠点を移している。生活の大変さは推して知るべしだけど、それでも彼女がその土地土地の名産食材を使い美味しそうな料理をこしらえ、美しい食器に盛り付け、暮らしを楽しんでいる様子はSNSへの投稿を通して伝わってくる。
写真に写る料理の奥には、大柄な男性の腕や、小さくてぷくぷくした子どもの手が、写り込んでいる。

Getty Images、1枚目も

20代半ばで結婚し子どもを産んだ友人のそうした投稿は、東京の中心で繰り広げられる飲み会やイベント、仕事の報告やお知らせで埋め尽くされる私のタイムラインの中で、以前はやや浮いたものであった。
しかし徐々に周りの友人たちも結婚、出産を経験し、パートナーや家族について投稿する子も増えていった。だがその中でも、「直売所で買ってきた季節のフルーツを使って焼いた手作りのケーキ」や「家庭菜園で採れた食材で子どもと一緒に作ったお菓子」が毎週のように登場する彼女の投稿は、結婚も子育てもしていない私にとって特に眩しいものであった。

30代に入ってから長らくろくな出会いもなく、また新型コロナの感染拡大が仕事に影響し、自分を食べさせることで精一杯の収入となった日々の中で、私は彼女に嫉妬していた。
丁寧な暮らし、子どもとの優雅な時間……そういったものが羨ましくて仕方がないのだ、と、ずっと思っていた。
しかし、ある日ニュースで目にした「子どもの体験格差」という言葉によって、自分の感情はもう一歩踏み込んだ絶望だったのだと思い知る。

Getty Images

嫉妬の根源は…

「子どもの体験格差」とは、狭義では習い事やクラブ活動をはじめ、キャンプやスポーツ等で得られる自然体験、博物館見学や芸術鑑賞などによる文化的体験、そして季節の行事や旅行といった、学校以外で行う活動について、世帯収入や保護者の学歴によってそれらに触れる機会に差があることを指し示す言葉だ。
その言葉が指す「体験」には広義では、たとえば「家庭でお誕生日会をする」や「親が子どもの勉強をみてあげる」といったことも含まれているのだという。
ニュースではそういった、一見何気ないとされていることを経験するのも困難な子どもがいる現状に警鐘を鳴らしていた。

子を持たぬ自分にも、「都内で暮らしながら子どもを塾に通わせ、中学から私立へ入れることはできるのだろうか」「習い事はどれぐらいさせられるのだろうか」「留学やインターナショナルスクールへ通わせるのはさすがに難しいだろう」……そんなことを考えるぐらいの想像力はあった。

しかし、「誕生日に手作りの料理とケーキが振る舞われ、友人たちを家に招いてお誕生日会をする」といったことが格差の文脈で語られ、かつて日本の多くの家庭で"普通に”行われていたとされることも誰かにとっては“贅沢”だといわれる時代がもうそこまで来ていることはショックだった。
そして私にとってもそれは、いろいろな意味においてもはや贅沢で、場合によっては叶えられない夢になる可能性があることに、言いようのない不安を覚える。

「あぁ、私があの子の手作りケーキの写真を見て感じた嫉妬の根源は、ここにあったんだ」そう思った。

Getty Images

手作りが身近にあるという体験

30代、独身。結婚したらできれば子どもはほしい。
「結婚相手への理想が高い」なんてもう、何度も何度も言われてきた。特に収入面についての理想を話せば「この不況で、そんな高望みは無謀」と言われたことも少なくない。その言葉の中に「しかも、その年齢で」というニュアンスが滲んでいることだってちゃんと理解してる。

でもそれは、私自身が裕福でラクな暮らしをしたいからではない。いつか生まれてくるかもしれない我が子に、その子が望む人生の選択肢を満足に与えたい、そしてお金によって体験の機会を失うことのない人生であってほしいという願いがあるからだ。でも現実には、自分の収入はままならないし、そうなれば相手の収入に期待を寄せてしまう。
仕事と両立しながら習い事、進学……ましてや子どもと共に季節を感じ、五感を使い、両親と何かを手作りするといった体験をさせながら子育てをすることを実現しようとするには、どれぐらいの世帯収入と、時間、さらには精神的な余裕が必要なのか、想像するだけで気が遠くなる。

「なんでも保護者が手作りすべき」という、"手作り至上主義”や、"専業主婦/専業主夫絶対論”を掲げたいわけではない。
でも、たとえば朝食のパンに塗るいちごジャム。スーパーで買ってきたものではなく、生のいちごをスプーンの裏で潰す感触、砂糖と煮詰める時に台所に漂う甘い香り、焦げてしまわぬように丁寧に木べらを動かす母の慣れた手つき、そんな母と並んで覗き込む鍋の中の赤い色……それらが一緒に詰まった瓶の中にあるいちごジャムの味は「体験の味」がする。
たとえば習い事のプログラミング。送り迎えをしてくれる父の眠そうにあくびを噛み殺す細い目、寄り道して買ってくれる玩具や菓子。何度も失敗して課題を家に持ち帰って完成を目指す時、手や口を出すのをこらえながらもずっと付き添う父のどっしりとしたぬくもり。言葉少なに、でもあったかい言葉で褒めてくれる時のくすぐったさ。その過程を経て作り上げた作品は、モノではなく心に刻まれる思い出になる。そういった鮮やかな体験が人間を作ることを私は、世間は、知ってしまっている。それが時に偏差値よりも価値が高く、しかも、お金も高くつくことも、知ってしまっている。

子どもと手作りケーキを作る友人、未就学児の年齢からアートを教育に取り入れる知人、幼いうちからミュージカルやコンサートを鑑賞させている友達。
彼ら彼女らの学歴や現在の仕事、そこから想像される経済力が、子どもを名実ともに「豊か」にしている。そんなものばかり、透かして見ようとしてしまう。
「母親の、父親の、保護者たちの手作りが身近にある」という体験を我が子に与えることができている人たちが、狂おしいほどに羨ましい。

“憧れの贅沢”が待っていない予感に…

「高偏差値=高学歴=いい会社=いい結婚=幸せ」なんて、簡単な時代じゃない。でも、世の中が複雑になったことで、そんなふうに簡単に導き出してたものの“正当性”が炙り出され、持たざるものは蝕まれる。
「非認知能力」「認知能力」なんて言葉を使うから小難しくなるけど、何十年も前から言われてきた「玉の輿にのったら幸せ」が、今こそ証明されてる気がして恐ろしくなる。自分が頑張った先に、“憧れの贅沢”が待っていない予感で、震えそうになる。

だから今、結婚や子育てよりも、キャリアや、自分自身の人生のためにあれだけ突っ張ってきた私は、私は、専業主婦として子育てをする友人がたまらなく羨ましい。

41歳で始めたマッチングアプリにモヤモヤした話 独身42歳、結婚式参列で見える景色が変わった
文学部出身のてんびん座、好きな色はミント色。東京の真ん中で、東京からこぼれそうな人たちの声を拾いたいライター
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