『ワイドナショー』発「容姿いじり」問題をドイツ人が考える

お笑いにおける「容姿いじり」とは一体何なのか……? いじめ? それともかわいがり? 何となくモヤモヤしてしまうこの問題をドイツ人のマライ・メントラインさんに聞いてみました。
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「イジる」とは「遊ぶ」と「いじめる」の間に位置する

3時のヒロイン福田麻貴が「容姿イジリのネタを捨てる!」とSNSで宣言し、それが『ワイドナショー』(フジテレビ/日曜朝10時〜)等で取り上げられ話題化したことで、世間は妙にザワついた。

その理由の一つに、彼女の主張はあくまで「売れるか、ウケるか」という市場原理をベースとしたものであり、世間が勝手に期待しているモラル・ポリコレ的な文脈を微妙に外した形でうまく纏めていた、という点が挙げられるだろう。

よって世間はある意味、各種の渇望だけを掻き立てられることになった。
その一つに「イジり」とはそもそも何か、それって許されるのか否か、というずっと燻り続けてきたテーマの蒸し返しがある。『ワイドナショー』では松本人志が(いつもながらの)逆説的なフォローを入れながら居酒屋哲学的に場を何とか纏めていたが、まあご存知のとおり、それで世間の皆の衆がひとしく腹落ちするものではない。

個人的に「イジる」とは、「遊ぶ」と「いじめる」の間のどこかに位置する行為であり、往々にしていじめの隠蔽や正当化に使われる概念だと思う。実際に問題となるのは大概そのケースであり、本稿ではこれに絞って述べてみようと思う。

 

「かもしれない」の期待値

イジりというもの。

加害者側は「これは遊びの一部ですよ~! 攻撃なんかじゃないんスよ~!」と自らを正当化するためにこの言葉を使い、いっぽう被害者側も「自分も彼らの仲間の一人なんだ、そうに違いない……」と自らの屈辱的境遇を正当化し、なけなしの平常心を維持するためにこの言葉を使う。そう、加害者側と被害者側が、それぞれの勝手な解釈で自らの地位を守るため、イジりを通じて共犯的関係を成立させてしまうのだ。

「イジり」の実際の座標が、「遊び」寄りなのか「いじめ」寄りなのかは常にグレーであり、いうまでもなく加害側と被害側の認識には相当のズレがある。が、数値化された基準など存在しないため、そのズレは隠蔽されがちだ。ゆえに、嗜虐性が通常のイジメよりも高度化し、深刻なものになる可能性を常に秘めている。

このダークサイド心理的システムを成立させている大きなポイントの一つに、特に被害者側の「攻撃じゃないかもしれない」という、「かもしれない」の期待値の妙な高さがあるように感じられる。

なぜ「かもしれない」に頼り、どこまでも縋ろうとする傾向があるのか?
なぜ? という疑問の解決解消までは本稿では不可能だが、少なくとも、ドイツ人的なコミュニケーション心理から見て異質だな、という実感はある。

もちろんドイツでもいじめ問題は昔から存在し、「イジり」に該当する正当化テクニックも探せば無いとは言えないだろうが、それが日本でのように、笑いで偽装された心理構造として明示的にピックアップされたことは無いように思う。少なくとも私の知る限りでは。

 

ドイツ社会での一般的な流儀

それはなぜか?
なぜドイツでは「発生しにくい」のか?

日本人の知人をドイツに招いたとき、「現地のゲスい文化に触れることこそ真の文化的フィールドワーク」主義の一環とやらで、その知人が「ドイツの東スポ」として一部で著名(当時の診断記録で判明! ヒトラーの睾丸は単タマだった! など魅惑の記事が満載)な大衆紙『Bild』ローカル版を街頭スタンドで購入していた。そして紙面を隅から隅まで探る中で、
「おお、マライ! これはいったい何ぞや?」
「……出会い系の個人広告コーナーですが、それが何か?」
「いやソレはなんとなくわかるのではあるが……なぜ彼らは、わざわざ顔写真を載せてるんだ? 載せないほうがよさそうなのに!」

載せないほうがよさそうなのに!

 ここが大きなポイントだ。
ついでにいえば、まさに「容姿」にダイレクトに深くかかわる問題だ。

知人氏いわく、いやー、オレだったら載せないよ。だってイケメンならともかく(つぅか、イケメンならここに載せる必要ねぇし)、載せたらむしろ会える確率減っちゃうじゃん……!

私は応える。いやいや、それは思考が逆です。中途半端に相手に期待させておいて、途中で、あるいは最後の最後でガッカリさせて破談になる方が、よっぽど罪深いし双方ダメージでかいし、つまり人生コスト的にマイナスだし! と。
それが実際、ドイツ社会での一般的な流儀なのだ。

知人氏にとってこの事実はかなり衝撃だったらしい。「え、マジか! 超マジっすか……いま、なにやらオレの脳内で、『ターミネーター2』のテーマ曲が渦巻いてるんですけど!」と現場で彼が発した率直な表現に、そのインパクトの大きさが窺える。

ポジティブな幻想ストーリー実現の可能性に最後までワンチャン賭けたがる日本人と、最初から現実的なドイツ人、というべきか……?
いや、それでは表現が微妙に足りないな。

 

今のそのお言葉、愛着とも攻撃とも解釈できますけど

けっきょく何を言いたいのかといえば、ドイツ人は心理的な駆け引きにて、「かもしれない」の可能性をあまりアテにしない、むしろそれに縋ることで時系列的にリスクが増すだけ、と考える傾向が強く、それを踏まえたリスク回避策をとるということ。

これは、特に、自分の立場を不利になる可能性がそこに存在するとき、グレーゾーンというものを放っておかない傾向がある、と言い換えることも可能だろう。

ゆえに、たとえば「容姿いじり」っぽい事態に直面した場合、ドイツ的流儀と論法を用いるなら「今のそのお言葉、愛着とも攻撃とも解釈できますけど、それぞれの要素の配合比はどれだけですか?」と相手の眼を直視しながら言い放つことができる。おそらく、それに対してグレーゾーン文脈をさらに上書きして返すのは容易ではない。

もちろん、「ドイツ流」が素晴らしくて何でもそれを適用すればサイコー! などということはない。微妙なニュアンスの機微を除外しがちな即物性が、プライベートな日常の精神生活のアレコレをも定義しようとしてくる厄介さは中々のものだ。そもそも実際、ドイツ周辺国に根強い「ドイツ人嫌い」の原因の少なからぬ部分はナチの歴史がどうのこうのという以前に、隣に住むドイツ人がふりかざすそのへんのアンチ曖昧性みたいなものにあるだろうし。

……などという面を割り引いて評価する必要はあるものの、今回紹介したドイツ的な処世術は「グレーゾーンを悪用させない」という面で、イジり的いじめ構造に対する心理防衛術を構築する際に何かしらのヒントになるように思う。

ついでに付け加えれば、イジり、特に「容姿イジり」というのは感覚的で底の浅い攻撃欲求の発露の一つであり、低コストな神経負担でそれなりの打撃を相手に与えられるという意味でコスパの良いイジメだったりする。真顔でしっかり正論武装しながら対応すると、たとえ最終的に言い負かしたとしても効率の悪さが後味の悪さとして残りがちだ。ドイツ流の論理定義による対応は、相手の「文脈」そのものを軽く上回って攻撃・防御を展開する「教養層の知恵」的な技法でもあるので、いざ慣れれば思考負担という面でもたいへん効率が良かったりする。

悩める紳士淑女のみなさまは、自分の置かれたシチュエーションを踏まえた上で、ぜひ一度お試しあれ。

翻訳(日→独、独→日)・通訳・よろず物書き業。ドイツ最北部、Uボート基地の町キール出身。実家から半日で北欧ミステリの傑作『ヴァランダー警部』シリーズの舞台、イースタに行けるのに気づいたことをきっかけにミステリ業界に入る。ドイツミステリ案内人として紹介されたりするが、自国の身贔屓はしない主義。というか、エンタメ作品は英米の精鋭作品のコンセプト性をベースに評価することが多いので「エンタメ途上国」ドイツへの視線は自然に厳しくなるとも言える。好きなもの:猫&犬。コーヒー。カメラ。昭和のあれこれ。牛。