「麒麟がくる」全話レビュー44

最終回【麒麟がくる】徹底考察。みんな大好き「本能寺の変」はどう描かれたか

本能寺の変を起こした明智光秀を通して戦国絵巻が描かれる壮大なドラマ、NHK大河ドラマ「麒麟がくる」。新型コロナウイルスによる3カ月弱の放送一時休止を経て、最終回を迎えました。今回は、「麒麟がくる」で描かれた本能寺の変、光秀のその後を人気ライター木俣冬さんが徹底解説し、ドラマの裏側を考察します。

大河ドラマ「麒麟がくる」(NHK総合日曜夜8時〜)最終回「本能寺の変」(脚本:池端俊策 演出:大原拓 一色隆司)は15分拡大版。明智光秀(長谷川博己)と織田信長(染谷将太)がどう決着をつけるか。そして麒麟はくるのか。とにかく“本能寺の変”がどう描かれるか視聴者全集中で、視聴率は18.4%(ビデオリサーチ調べ 関東地区)とぐっと上がり有終の美を飾った。

信長人気は高かった

このレビューでサブタイトルに信長が入っていると視聴率が上がる説を唱えたことがあるが、最終回は「信長」の文字こそ入ってないものの、「本能寺の変」といえば「信長」といささか乱暴だけれど同じようなもので、やっぱり信長の人気は高かったと実感する。
日本人に愛される信長を「麒麟がくる」では、彼が生きている限り麒麟はこない、平和を呼ばない人物として描ききった。

「麒麟」とは「仁のある政治をする為政者が現れると降り立つ聖なる獣」。物語の最初、信長は麒麟を呼ぶ男と期待されていた。光秀は、世の中を平らかにするため、争いをやめるために、信長の資質を見込んだ。ところが、信長はその期待に反して、己の権力を拡大する野心ばかりが増大し、無用な虐殺を起こしていく。
仁なき暴走殺戮兵器・信長を止めるのは、それを作り上げた光秀しかいない。物心ついたとき仕えてきた斎藤道三(本木雅弘)から受け継いだ大きな国の野望と、それを目指すための神輿に乗せた人物の過ちの責任をとる決意がとうとう固まったのは、信長から足利義昭(滝藤賢一)を殺すよう命じられたときだった。光秀がひとり頭に手を当てて悩んでいるところはほんとうに引き裂かれそうな感情が伝わってきた。

光秀は信長と語り合う。戦のない世を夢見て語り合ったのは10年前? 15年前? と懐かしむ信長。本当はもう疲れていて「2人で茶でも飲んで暮らさないか」と半ば求婚のようなことを言いだす。戦、戦でもう長いことよく眠れていない。「子どものころのように長く眠ってみたい 長く……」と願いを口にする信長。彼は義昭を殺せば眠れるようになると思ったのかもしれないが、光秀は命令を断る。
「私には将軍は討てませぬ」

もう一度、獲った魚を民に安く分け与える信長に戻ってほしいと光秀が切々と訴えても、「わしを変えたのは戦か。違う」「そなたであろう。そなたがわしを変えたのじゃ」と信長の暴走は止まらない。
「帝さえもひれ伏す 万乗の主となる」と言い張る信長に光秀は決意し、左馬之助(間宮祥太朗)、伝吾(徳重聡)、斎藤利三(須賀貴匡)に告げる。
「我が敵は本能寺にある。その名は織田信長と申す」

「赤穂浪士」「シン・ゴジラ」のような本能寺の変

みんな大好き“本能寺の変”は主として、圧倒的なヒーローが絶頂期で思いがけず滅びる運命をエンタメとして消費するショー的なものだ。「麒麟がくる」の“本能寺の変”のはじまりは「赤穂浪士」の討ち入りのようだった。ひたひたととそのときがやって来て、圧倒的なものに対して己の信念を貫き勝負を挑む瞬間は、「シン・ゴジラ」で長谷川博己演じる官僚がゴジラを倒すべく決死で指揮を執った場面のようだった。

茶会のため本能寺に入った信長。天正10年6月2日早暁。外の気配に目を覚ました信長は、水色桔梗の旗印――光秀の軍が攻めてきたことを知る。
「十兵衛か!」
「十兵衛 そなたが」
「十兵衛か」
泣きながら笑い、肩にささった矢から流れる己の血をなめる信長。
「であれば是非もなし!」
やがて信長がひとり部屋にこもって、蘭丸にここに火をつけよと命じる。
「わしの首は誰にも渡さぬ」 
死に際、大事にしていた茶器を全部燃やせと部下に命じた松永久秀(吉田鋼太郎)のように、自分自身を誰にも渡さない信長。それは彼の矜持ではなかったか。本能寺の焼け跡を探索したとき光秀は、信長のその気持を察して、これ以上探さないでよしとする。このときの左馬之助、伝吾、利三の3人の各々の表情がいい。

求めるものが違ってしまい分かれることになったとはいえ、最後の最後まで信長と光秀には誰にも入っていけない繋がりがあったに違いない。だからこそ信長を討つのは光秀以外にいなかったし、その首も残さない。

その後、「明智様が天下をぐるりと回してくれるわい」と波に乗るのがうまく、したたかな秀吉(佐々木蔵之介)との山崎の合戦にて光秀は敗れ、落ち延びるときに殺されてしまったという説や、天海大僧正になって家康に仕えたという説など諸説あり、はっきりしたことがわからない。「麒麟がくる」ではそのわからなさを逆手にとって、見た人それぞれの光秀のその後の余韻を楽しめる終わり方を選んだ。

度重なるアクシデントがなければ

信長が本能寺の変の定番、敦盛を舞わず、ショー的にしないことで、止まらない凶暴な生きものがようやく眠りについたような、哀しくも優しいものになったことと、光秀が、クーデターを起こした自己の思想の責任をとるかのような死を描かなかったこと。これは誰もが生きることを選ぼうという未来を生きる人たちへの呼びかけのように感じる。過去、どれだけ多くの者たちがより良い世の中を願って命を落としてきたことだろう。どれだけの血が大地に染み込んだことだろう。筆者としては、思想に殉じる美学に惹かれもし、光秀の始末も見たかったとも思うのだが、歴史を見ればどれだけ命を犠牲にして訴えてもそれでも平和はなおもやってこないことも知っている。ならば「麒麟がくる」の光秀のように、死なないことで“麒麟”という希望を繋ぐこともあっていいのではないか。

そこには、光秀の決意が娘・たま(芦田愛菜)との会話も影響を及ぼしているようにも描かれて見えることも指摘しておきたい。細川忠興に嫁いで幸せを味わうたまが、夫と父との間で揺れて「命がふたつあれば」(ひとつは死を選び、ひとつは生きる)と言うと「命はひとつでいい」と返した光秀もまた、信長に対して同じ思いを抱いたのではないか。もしも命がふたつあれば、信長と共に死にたいと。だが光秀は、たまに限らず誰もの尊いひとつの命を守ることを、このとき決意したのではないか。

光秀は作った者の責任として共に死ぬのではなく、信長を自分のなかに閉じ込めたようにも見えた。生き残った義昭(滝藤賢一)が駒(門脇麦)に信長にも光秀にも「志」があったと言う。光秀の正義の志と、信長の何かを犠牲にしても貫く志。そのふたつをひとつにした、死なない革命を「麒麟がくる」では描いたように感じた。コロナ禍のほか、度重なるアクシデントがなければ、さらに歴史エンターテイメントとしての説得力に富んだものになったのではないかと惜しまれる部分もあるとはいえ(斎藤利三にももっと活躍の場がほしかった)、それでも「麒麟がくる」は令和という時代にふさわしい物語になった。

〜登場人物〜
明智光秀(長谷川博己)…麒麟がくる世の中を目指し、戦をなくそうと奮闘している。

【将軍家】
足利義輝(向井理)…室町幕府13代将軍。三好一派に暗殺される。
足利義昭(滝藤賢一)…義輝の弟。室町幕府15代将軍。信長に追放される。

細川藤孝(眞島秀和)…室町幕府幕臣。義昭を見限った。
三淵藤英(谷原章介)…室町幕府幕臣。藤孝の兄。最期まで義昭に殉じた。

【朝廷】
正親町天皇(坂東玉三郎)…第106代天皇。光秀を気に入っている。
三条西実澄(石橋蓮司)…公卿、古典学者。光秀と帝を引き合わせる。
近衛前久(本郷奏多)…前関白。

【大名たち】
織田信長(染谷将太)…尾張の大名からのし上がり右大将となる。
帰蝶(川口春奈)…信長の正室。信長を見捨て美濃に戻る。斎藤道三の娘。
羽柴秀吉(佐々木蔵之介)…信長の家臣。
佐久間信盛(金子ノブアキ)…信長の家臣。
柴田勝家(安藤政信)…信長の家臣。
徳川家康(風間俊介)…三河の大名。信長の娘が嫡男の嫁。
菊丸(岡村隆史)…家康の忍び。
松永久秀(吉田鋼太郎)…平蜘蛛を残して死亡。

【明智家】
煕子(木村文乃)…光秀の妻。病死。
たま(芦田愛菜)…細川ガラシャ。光秀の次女。藤孝の嫡男・忠興に嫁ぐ。
岸…光秀の長女。
明智左馬助(間宮祥太朗)…光秀のいとこ。
藤田伝吾(徳重聡)…光秀の忠実な部下。
斎藤利三(須賀貴匡)…明智家家臣。

【庶民たち】
伊呂波太夫(尾野真千子)…近衛家で育てられたが、いまは家を出て旅芸人をしている。
駒(門脇麦)…光秀の父に火事から救われ、その後、伊呂波に世話になり、今は東庵の助手。よく効く丸薬を作っている。
東庵(堺正章)…医師。敵味方関係なく、帝から戦国大名から庶民まで誰でも治療する。

ドラマ、演劇、映画等を得意ジャンルとするライター。著書に『みんなの朝ドラ』『挑戦者たち トップアクターズルポルタージュ』など。
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