翻訳家・エッセイストの村井理子さん「悲しさは低温でずっと抱えているもの。それを書くことで正直になれる」

翻訳家、エッセイストとして多方面で活躍する村井理子さん。プライベートでは、双子の男の子を育てるお母さんでもあります。WEBメディア「考える人」の人気連載エッセイが、『村井さんちの生活』(新潮社)として出版されました。今回は、村井さんのお仕事や過去、さらにtelling,読者に向けたアドバイスをお話いただきました。

趣味で集めた情報が、まさかの書籍化。会社員と翻訳家の両立へ

――現在は翻訳家やエッセイストとして活躍されていますが、なぜ翻訳家になられたのでしょうか?

村井理子さん(以下、村井): 最初に出版した「ブッシュ妄言録」(フガフガ・ラボ/ぺんぎん書房)がそこそこヒットして、そこから少しずつ翻訳の仕事が入るようになった、という感じです。この本は、ブッシュ大統領のおもしろい発言を集めたジョーク本です。当時は企業に勤めているOLで、趣味でブッシュ大統領の発言を集めていました。それを友人が作ったWEBサイトに載せてもらっていたのですが、不思議なことに、ある編集者の目に留まったのです。趣味で楽しんでいただけなので、まさか私が翻訳家になるとは、夢にも思っていなかったですね。

――会社勤めをしつつ、翻訳に携わるようになったんですね。

村井: はじめは両立しようとしていたのですが、書籍が雑誌で紹介されたことで、会社にバレてしまったんです。何となく居心地が悪くなって、翻訳家一本に絞ろうと決意して退職しました。ただ、今のようにコンスタントに仕事が入るようになったのは、40歳を過ぎてから。ここ5年くらいの話なんですよ。それまでは1年に1冊あればいいほうで。仕事が入ってくる保証がない時期がかなり長く続きました。

――翻訳の仕事はさまざまな知識も必要です。一番大変なことは何ですか?

村井: やっぱり、長丁場というのが1番大変ですね。英語から日本語に訳すと、文字数が1.5倍になるんですよ。長いと1冊で原稿用紙800枚(約32万字)を超えたりするんです。膨大な文字と戦わなければならないし、ミスの許されない世界。量が多いので、最初の方に何を書いていたのか忘れてしまうこともあります。どんな本でも、著者ではないので1冊丸ごと理解することは難しいですね。

――村井さんは、エッセイも多く執筆されています。エッセイを書くようになったのは、どのようなきっかけからだったのでしょうか?

村井: 今は見られないのですが約18年間書き続けていたブログがあって、それがきっかけで少しずつ依頼をいただくようになりました。書くことが好きで、翻訳よりも前から趣味でブログやメルマガを書いていたんです。「考える人」で連載している『村井さんちの生活』が始まってからは、それを読んだ編集者からご連絡いただくことも増えました。翻訳は根気がいりますが、お手本があるので書くことはそこまで大変ではないんです。エッセイは1から自分の言葉で書くので、体力を使いますね。

窓からは滋賀県の美しい自然が眺められる、村井さんの仕事場

「楽しさは瞬間的な消費。悲しさは低温で長く抱えるもの」

――『村井さんちの生活』は、ドライで客観的な視点で描かれているのが印象に残りました。

村井: 家族の話って、9割が書けないことなんですよ。感情のままに書くと重すぎるし、べたついてしょうがない。だから詳細はかなり削って、落ち着いたトーンで書くことを心がけています。当事者としてではなく、上からのぞいているような感じで書いたほうがいいんじゃないかって。

――いくつかのエピソードは、自分事のように泣きながら読みました!

村井: 多分、私は「悲しみ」が一番書きやすいんです。寂しさや喪失感のほうが、書いていて正直になれます。楽しさは瞬間的な消費ですが、悲しさは低温でずーっと抱えているものだから。普段みんなが隠しているものを私が開くことで、共感を得られると感じています。だから、わんわん泣きながら書くこともあります。私の場合、泣くことで悲しみを解き放っているところがあるので、これもいい作業だなと思っています。

――この本を読んで、母親を思い出してしまいました。当たり前のことですが、母も村井さんのようにいろいろなことに悩んだり、考えたりして育ててくれたんだなと気づきました。

村井: 「お母さんもお母さんが欲しい」って、最近よく聞きますよね。「お母さんのふりをしているだけで、お母さんもずっと子どもなんだ」という視点をよく感じます。そこが書けたらいいなと思っていました。

――このエッセイを連載していた4年間で、特に印象に残っている出来事はありますか?

村井: 2018年に3週間入院したことですね。それ以降、生活がガラッと変わったんです。一番大きかったのが、お酒を飲まなくなったこと。入院前はむちゃくちゃ飲んでいて、一生やめられないと思っていたので(笑)。もともとたくさん仕事をしていましたが、お酒をやめたことで、さらに仕事量が増えたんです。それから、自分のための時間を作ることができました。飲む喜びよりも「人間ってこんなに元気に生きられるんだ」という発見の方が強烈でした。どんどん健康になって、血液検査の結果を見るたびに達成感を得られるような……シンプルに、健康であることがうれしい。思い通りに身体が動くって、こんなにいいことなんだなと。

村井さんの愛犬・ラブラドールレトリバーのハリー

目の前の仕事や趣味に一生懸命だった30歳。子どもが欲しいとも思っていなかった

――双子のお子さんの育児と仕事を両立するために、心がけていることはありますか?

村井: 心がけていることは山ほどありますが、すべてが裏目に出るんです。一生懸命やればやるほど空回りするし、結局自分を追い込むことになる。だから高い目標は持たず、最低限のことだけをクリアできれば……という毎日ですね。意外と肉体的な苦労は乗り越えられるもの。例えば、子どもが小さい頃はお金があれば解決できることも多い。でも思春期を迎えると感情面でぶつかり合うことが増えるので、お金で解決できないことが重要になってきます。子育てとの両立で、こんなに苦労させられるとは夢にも思っていませんでした。うちは双子なので、生まれたときから2人1組で扱われるのにすごく慣れています。ところが、思春期になるとそれに対しても怒りを持つように。「俺たちは1人1人個性がある!」という主張が出てきて、すごく大変です。

――telling,読者は、30歳前後の女性たちです。村井さんが30歳の頃は、どのような生活を送っていましたか?

村井: 派遣社員として企業に勤めてましたね。会社が終わったら同僚とご飯を食べて飲み歩いて……ごく普通の一般的な30歳で、なんのビジョンもありませんでした。結婚したての頃で、まわりから「子どもはどうするのか」と言われるのと戦い続けていた時期でもあります。
私は子どもが欲しくなかったし、「絶対にこの人の子どもが欲しい」とも思っていなかった。正直に言うと、子どもが苦手なんです。無条件に「かわいい!」と思えないタイプなんです。出産よりも、目の前の仕事をやりたい、本を読みたい、旅行をしたい、海外に行きたい……そういう気持ちのほうが強かったですね。
しかも、将来のことも考えられていなくて、宙ぶらりん。今思うと、しっかりと考えられるようになったのは42、3歳でしたね。成人式は40歳なんじゃないかと思うくらい。自分が定まらないフラフラな時期があまりにも長くて、30歳の頃はなにも成し遂げられてない、小学生くらいの幼さだったと思います。

幼い頃の村井さんの双子の息子さんとハリー

――30歳頃から、結婚や出産、キャリアアップなどに悩む女性も増える印象です。この年代の女性たちに、メッセージやアドバイスをいただけますか?

村井: 今の時代の30代って、私が30代の頃よりずっと大変だろうなと思います。不景気だし、コロナもあるし、社会が閉鎖的になってきてるし。でも「自分が一番大事」ということは忘れないでほしいですね。他人のために愛情を注ぐことが、必ずしもその人のためになるかというとそうでもないんです。主婦歴20年で悟りましたが、自分が犠牲になって献身的になることが家族のためになるということではない。50歳、60歳になったときに今を振り返って後悔したらつまらないですから。今の自分を大事にすることは忘れないでいてください。

■村井理子さんのプロフィール
翻訳家。訳書に『ブッシュ妄言録』『ヘンテコピープルUSA』『ローラ・ブッシュ自伝』『ゼロからトースターを作ってみた結果』『ダメ女たちの人生を変えた奇跡の料理教室』『兵士を救え! マル珍軍事研究』『子どもが生まれても夫を憎まずにすむ方法』『人間をお休みしてヤギになってみた結果』『サカナ・レッスン』など、エッセイに『犬(きみ)がいるから』『兄の終い』など。『村井さんちのぎゅうぎゅう焼き』(KADOKAWA)で、「ぎゅうぎゅう焼き」ブームを巻き起こす。ファーストレディ研究家でもある。

フリーランス。メインの仕事は、ライター&広告ディレクション。ひとり旅とラジオとお笑いが好き。元・観光広告代理店の営業。宮城県出身、東京都在住。